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『ビジネスは「私の履歴書」が教えてくれた』

2012.04.06
NPO法人江戸しぐさ副理事長・桐山勝

 日本ケミファ株式会社元専務の吉田勝昭さんが『ビジネスは「私の 履歴書」が教えてくれた』(中央公論事業出版)を出版しました。
 日本経済新聞の名物連載企画を永年読み、ノートに書き留めてきたそう。
 拝見すると、「大切な気づき」「陽にとらえる」「ロクを効かす」 「代替わりに注意」「後継者を育てる」など、江戸しぐさの要締が随所に出てきます。広く一読をお勧めします。

●最近の話題は佐久間良子

 日本経済新聞朝刊の文化欄に掲載されている「私の履歴書」は、昨年、55周年を迎えた長寿企画。サラリーマンでいえば第一次定年を迎えたところだ。
 内外の経営者、文化人、スポーツマンなど、様々な分野の人物を毎月1人取り上げ、自ら歩んできた道を振り返ってもらう手法が好評のようだ。
 日経が2006年9月に調べたコラムの人気度(閲読率)を見ると、「私の履歴書」84.5%、「春秋」82.2%、「社説」79.6%、「交遊抄」74.5%となっている。

 実際には、本人自ら筆を執った人はほとんどいない。記者歴10年前後の記者が1回3-5時間のインタビューを10回程度行い、30ないし31回分に構成、書き上げた原稿に、今度は本人が手を入れていく、という順序をたどる。
 完成までには、本人の記憶違いを調べたり、いったんはしゃべったものの都合が悪いからと削除を要請されたり……担当者ならではの苦労がある。
 もちろん、ご本人も校正作業を重ねるうちに、だんだん熱が入ってくるようなところがある。ある程度お年を召しているせいもあって、根を詰め過ぎ、「老人キラー」という向きもある。

 しかし、こうした作業を手抜きせずに、きちんと繰り返しているからこそ、読者を飽きさせないし、時折、ドキッとするエピソードが飛びだしたりする。最近では女優の佐久間良子が不倫や離婚の真相に踏み込んで話題を呼んだ。

●入社2年目から愛読

 本書の著者、吉田さんが「私の履歴書」を読みだしたのは入社2年目の1967(昭和42)年からだ。日本ケミファという製薬会社で入社早々、病院関係者に医薬情報をつなぐMRという仕事を担当していたため、履歴書にまで手が届かなかったのだという。
 もっとも、読み始めてから20年目を皮切りに、5年目ごとに、執筆者を整理、分類、若干の解説を加えて社内報に寄稿したり、親しい人たちに配布し始めている。
 中でも、自分自身が、次第に企業の中枢になるにつれて、経営者の足跡が気になってきた。直面した経営上の難問解決に、経営者はどのように立ち向かい、知恵と才覚を生かしたか。「その内容は社員や息子の素晴らしい教材になる」と考えたという。

●吉田流「履歴書の魅力」

 吉田さんは履歴書の魅力を5つに分けている。

 (1)ビジネスのヒント(仕事のやり方、取り組み方、経営の極意)になる。
 (2)人生のヒント(人との接し方、健康問題、生き方)になる。
 (3)大震災など未経験の世界を知ることができる。
 (4)執筆者の生い立ちと家庭環境が分かる。
 (5)知識と話題が豊富になる。

 確かに、ご指摘の通りで、それぞれの専門分野で、功なり、名を遂げた人物が自らを語るわけだから、魅力に富んでいる。
 ご自身の体験に照らしても、「地方勤務の時は、その土地に関連した筆者、東京本社に戻ってからはそれまで面識がない異業種の人たちとも関連業種出身の筆者を取り上げ、交遊を深めた」という。

 人間は面白い。生まれ故郷が一緒、あるいは出身校が一緒など、何かお互いの共通点があると、心を許してしまうところがある。そこを糸口にして話題が広がっていくものだ。

●自分の体験から書き出し、読みやすい

 さて、本書の構成である。第1章仕事のヒント、第2章経営のヒント、第3章人生のヒント、そして、第4章執筆者分類、第5章過去の連載を読みたいとき、となっているが、ここでは第1-3章を取り上げる。
 興味深いのは、取り上げる素材の前後に、自分自身の体験、そして履歴書から得たヒントを具体的に書き込んであることだ。

 たとえば、「失敗から得られる教訓」では――
 入社1年目、毎月のように自動車事故を起こした。その報告書には「相手方の不注意」「雨で見通しが悪かった」「道路が整備されていなかった」と書いた。
 しかし、実際は被害者への入院見舞や、お詫び、警察への出頭などの際、上司や女性事務員が自分の代わりに頭を下げてくれていた。
 「この姿を見たとき、事故の原因は他人ではなく、自分にあると気付くのです」。事故が殆ど無くなったことは言うまでもない。
 あれをやった、これをやったといった類の成功物語から始まると、人によっては学ぶ気持ちより、つい、反発の方が先立つ。この点、こうした配慮のおかげで、若い読者でも、素直に入り込めるのではないか。

●現代版・江戸しぐさの宝庫

 さて、筆者自身も嬉しい発見をさせていただいた。現在、NPO法人江戸しぐさの一員として、江戸しぐさの普及活動に携わっている。普及活動に絶好のテキストができた。
 江戸しぐさは、一口で言うと「人の上に立つ者の心得」。江戸の商人たちが育み、やがて一般の人びとにも普及した日本人の心映えの文化と言っていい。
 江戸が開けた最初こそ、商売繁盛に役立つという意識が強かったが、暖簾を守り後継者を育てる必要に迫られ、「経営哲学」あるいは「人間関係を円満にする秘訣」として昇華、広まっていった。
 ところが、明治維新を経て、第二次大戦での敗戦とGHQの戦後政策による日本の伝統文化の排撃、そしてバブルによる拝金主義のはびこり、などが重なって、このよき伝統は忘れ去られるようになってきた。

●絶好の教科書に

 NPOは、このままでは日本人の良さがどこかへ行ってしまう、ということで越川禮子理事長らと立ち上げた組織だ。
 江戸では……という話の滑り出しに、多くの方たちは耳を傾けてくださる。そして、「いまの子どもたちに教えましょう。良い話を聴いた」、と言ってくださる。
 残念ながら、若いサラリーマンやOLなどの反応は違う。「それは江戸の話でしょう。いま、すぐ役に立つ話を聞かせて欲しい」。こんな反応が悲しいかな、増えている。
 本書を読んでいて、実は、もっとも意を強くしたのは、こうした若い世代に、「江戸しぐさは現代にも通用する。その実例は履歴書にある」と伝えることができる、ということだった。

●「気づき」「陽にとらえる」「ロクを効かす」

 実例をいくつか、引用したい。肩書は掲載当時のものである。

八尋俊邦・三井物産会長
 ネアカで知られた八尋俊邦三井物産会長。本社の課長に昇進寸前、ゴム取引で失敗、平社員に降格された。新人並みの電信整理が仕事になった。
 6ヶ月後、廊下ですれ違った担当の水上達三常務からこうささやかれた。「底値鍛錬百日だよ」。相場というものは、底値がずっと続くわけではない。高値もあるぞ、という意味だ。ささやいた真意は「敗者復活戦に備えよ」だろう。
 「敗者復活の機会がめぐってきたときに、自分はどう生かせるか」。常務の言葉をヒントに考えた。こうした行動を江戸しぐさでは「気づき」という。物事は教えられたものだけでよしとせず、これをヒントに何かをつかむ努力が大切、という意味だ。
 八尋さんは物事を前向きにとらえることにした。努力を続けた。何事も粘り強く、諦めない。そうすれば必ず道は開ける。こんなものの考え方を江戸しぐさでは「陽にとらえる」と言っている。

米山稔・ヨネックス会長
 スポーツ用品メーカー、ヨネックスの創業者、米山稔会長。バドミントン、テニス、ゴルフなどいまや世界的な人気ブランドをいくつも持つ存在になったのは、ある失敗の賜物だった。
 戦後、漁網の浮きを手掛け、順調に業績を伸ばした。ところが、1953年、注文が止まった。前年、漁網が木綿からナイロンに素材が変わり、これに伴って浮きも桐製からプラスチック製に代わっていた。
 調べてみると、NASA(米航空宇宙局)が素材の研究開発の先頭に立っていることが分かった。筆者(桐山)も米国初のスペースシャトルの取材に立ちあったから、その当時からの素材革命の進行は良く理解できる。
 1957年に始めたバドミントンラケットの成功は、こうした体験に裏付けられていた。しかも、これに加え、世界の一流プレーヤーをアドバイザーに起用し、マーケティングにも力を入れた。

 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚を人間が持つ五感と言っている。その上にあるのが第六感、つまりロクである。「ロクを効かせる」には日頃の修練が必要であることは言うまでもない。江戸の人々は自然のリズムに従いながらロクを磨いた。

●「代替わりに注意」「後継者を育てる」

 江戸しぐさでは、「人を見て商いをしろ」という。「相手の気質が分かるまでは商売を控えろ」ともある。商売は相手あってのものだが、信用し合える関係にならないと物事は順調に進まないからである。
 特に難しいのは二世経営者との付き合い。江戸しぐさでは「先代との取引を少なくとも1年間は増やすな」という。「二世は父親に対する負い目があるので、自分でもできると、背伸びをする傾向がある」ことを指摘している。

梁瀬次郎・ヤナセ社長
 外国車輸入最大手のヤナセの梁瀬次郎社長は先祖が甲州・武田信玄に仕えた士族だった。このため、父親から、事あるごとに、武田勝頼以下だ、と叱られた。調べてみると、なるほどできそこないである。本来、人並み以上の能力はあったが、信玄の死後、部下の信望を得ようとして無謀な戦をし、滅んだ。
 そこで、梁瀬さんは入社に当たって、修理工場のナッパ服勤務からスタート、初めて自動車を売ったのは10年目のことだった。
 「経営者がいちばん身につけなければならないのは、徳であり、徳のない人は経営者になることはできない。徳とは思いやりの気持ちと、自分自身の感謝の気持ちが生みだす」。けだし名言である。

●随年教法

 『養生訓』を書いたことで知られる貝原益軒(1630-1714)は、弟子の香月牛山(1656-1740)の『小児必要養育草(しょうにひつようそだてぐさ)』(1703)に刺激されて、『和俗童子訓(わぞくどうじくん)』(1710)をあらわしている。その中で注目されるのが「随年教法」という言葉だ。
 「子どもは年齢に応じて、心も、身体も順々に発達していくから、無理なく、急がず、社会人としてふさわしい素養を身につけるように養育すべきだ」という。
 江戸しぐさで、教育論になると必ず登場する「三つ心、六つ躾、九つ言葉、十二文、理十五で末決まる」である。
 要は、それぞれ、この歳になるまでに、この程度のことは身につけさせておけ、という養育目標である。履歴書に登場した人たちを見ると、実は、幼児期の養育が行き届いていたことが歴然とする。

柏木雄介・東京銀行会長
 柏木雄介東京銀行会長は父親の勤務の関係で、中国の大連で生まれた。その後、米国に住んだ。日本へ帰国したのは満12歳の時だった。読み書きできる日本語はひらがな、漢字合わせて150字足らずだったという。
 母親は教育勅語が暗記できないと知ると、入浴中、脱衣所からガラス1枚越しに大きな声で読んで聞かせた。子どもは、これに応えて復唱した。
 九つ言葉というのは、決して難しい丁寧語や尊敬語、謙譲語を使えということではない。相手に不愉快な思いをさせないような言葉づかいを身につける、ということだ。その時、いちばん身近な教師役は母親である。その教えを地で行っている。

立石一真・立石電機(現オムロン)社長
 立石一真立石電機社長の体験も貴重である。立石電機の創業は1933年。その後、オートメーションブームに乗って事業を拡大、1965年以降は自動販売機や自動改札分野で無人化を実現した。
 この人物の幼児体験とは――。実家は伊万里焼を製造販売し、裕福だった。しかし、小学校1年生の終業式を終えた翌日、父親が亡なり、母親は下宿屋を開業した。
 新聞配達をして、家計を助けたものの、やんちゃ坊主でもあった。あるとき、近所の悪童どもと、氷屋の店先のすだれのビードロを引きちぎって逃げ帰った。つまり泥棒である。
 母親は即座に呼びつけて叱ることはしなかった。「しかし、夜中、蚊帳の中で眠りに落ちようというときに、起こされた。『人様のものを盗むなんて、ほんに情けなか。これから絶対こんなことしちゃいかん』と、諄々と説教された」。
 体験上、知っていた一種の睡眠学習だろう。昔の養育法はこれほど徹底していたことが分かる。

©桐山

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