シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜【下】

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第28話「江戸講」

『大山詣り』

落語の『大山詣り』。江戸の長屋の講中が大山の石尊大権現の祭礼に合せて参詣に行き、ばかばかしい騒ぎを起こす話だ。

いつものことで、精進落としの保土ヶ谷の宿で、酒癖の悪い熊五郎が酒に酔って大たちまわり。今度ばかりは、懲らしめようと、すっかり寝入ったところで、よってたかって丸坊主にしてしまった。翌朝、敢えて起こさず、一人だけ宿に残して、出立してしまった。置いてきぼりを食った熊さん、頭に手をやって、ことの顛末に気がつく。何とかして仕返しをしたいと知恵を絞った。

かくて、早駕籠を仕立て、一足先に江戸に戻って、おかみさんたちを集めて曰く「残念だが、亭主たちはあの世に行った。金沢八景で乗った船が難破した」。みんなに知らせようと、この通り、坊主になって戻ってきた、、、、

一行が戻ってくると、長屋から読経の声が聞こえる。声の主は騙されたおかみさんたちで、みんな尼さん姿。熊五郎の仕返しとわかって怒り狂うみんなに、仕切り役が「まあまあ、お毛が(怪我)なくておめでたい、、、、」。

連、講

落語に出てくる大山詣りは宝暦年間(1751-64)に始まった。この時期は元禄期前後から江戸に住み着いた人たちが三代目を迎え、江戸っ子意識が出始めたころ。江戸っ子という言葉が初めて文献に登場したのが1771年だったことは、すでに見た。当時は、武士と町人が身分の違いをさほど意識せず、何かと言うと、寄り合いを持つのが当たり前になっていた。いわゆる「連」や「講」という組織である。狂歌や俳句、川柳の寄り合いは連の典型である。

趣味同好会に限らず、異業種交流会も、あちこちに生まれていた。鈴木春信が大小絵暦交換会で錦絵を生んだのも、この集まりのお蔭だった。長屋の住人同士、あるいは同業仲間で運営するのが講である。ちなみに富士山に登るための資金をためる富士講。1733(享保18)年、食行身禄(伊藤伊兵衛)が富士山で即身成仏したことがきっかけで生まれたという。江戸市中には八百八を数えると言うほど隆盛を極めた。1761年、鉄砲洲に築山を奉納した話は先に見た。商売に入用な資金を出し合う一種の無尽、頼母子講なども、この類である。連に比べると、やや形式ばり、実利を追う趣がある。

江戸講の誕生前夜

商人たちがメンバーである江戸講が始まった時期も、記録は残っていないが、おそらく、この前後と思われる。先行したのは二見直養に率いられる藤樹学派、石田梅岩の弟子筋の心学講舎だろう。ひとまずは、江戸での商売がしっかり根を張るまで、周りを見渡す余裕がなかった。たとえば1673年、三井高利が日本橋に越後屋の店を構えた当初、商売敵が店の前に汚物をまいてじゃまをした記録が残っている。しかし、次第に根生いの商人が育つにつれ、同業意識が芽生え、交流が始まっていた。

幕府が商人や職人たちを対象に組合の設立を命じる町蝕を出したのは1721年である。豪商たちの市場独占システム、株仲間はすでに定着していた。幕府は冥加金を通じて統御できる株仲間に次いで、組合を通じて、さらにその下のクラスを統御しようと考えたのである。

三井高房が『町人考見録』を書き、豪商のあり方に警鐘を鳴らしたのは1728年である。豪商たちが個人的な修養レベルから、次第に仲間を集めて江戸講を形成していった、とみるのが自然だろう。その時期は1750-1780年ごろになるだろうか。

「選ばれた会員制のクラブ組織とでも言うべきか、互いに知恵を出し合い、助け合う相互扶助組織だった」と、最後の江戸講元、芝三光さんは言う。宝天文化を楽しんだ商人たちは、その直後に襲った寛政の改革で、改めて商売の原点に回帰、江戸講を通じて、いちだんと研鑽につとめたと見るのは穿ちすぎだろうか。

江戸講

時を重ねるにつれ、江戸講で取り上げるテーマは、町並みづくりから世の中の動きを分析、対応策を考えること、人間関係を円満に保つことまで幅広かった。芝さん流の言い方をすれば「安穏無事(いくさがない)、豆息災(豆のようにコロコロして、まめまめしく働く)、幸せずくめ(そろわないと役に立たないものが揃うことをしあわせと言う)」の都をつくる事が江戸講に集まった人たちの動機だった。

会合は月2回。その日は商売を休んだ。当日は、朝6時から茶碗を30分、熱湯で煮るところから始まった。風邪などのはやり病を嫌った。座り方は車座。座る場所は銘々、決まっていて、そこに敷くものを座布団と呼んだ。時間に遅れると講が始まらないので「時間泥棒」と厳しく戒めた。休むときは代役を立てた。

講師はその時々のテーマによって変わるが、この呼び名は「講の先生」の意だ。明治になってつくられた教授、助教授(准教授)に次ぐ意味で使われた講師とはまったく違う、権威のある人を指したという。講中は実践、実学を大事にしていたので、ただ、座学の形で話を聞くだけで済まさなかった。今で言うロ-ルプレイング、手取り、足取り、口移しで、ものの考え方、言葉遣い、振る舞いを教えた。子どもたちも、茶碗の洗い方やしまい方、箸の持ち方や畳の拭き方、雑巾の絞り方、廊下の掃き方などを見よう見まねで覚えた。

バッタン様

江戸講が円滑に運ぶためには、縁の下の力持ちがいたことも知っておきたい。「お梭(ひ)がかり」と呼ぶ連絡係、あるいは世話係。子どもたちはバッタン様と呼んでいた。英語で言うと、行ったり来たりするからシャトルか。

「梭」は機を織る際、不可欠の存在で、縦糸の間を左右に縫いながらくぐりぬけては横糸を出し、美しい織物に仕上げていく。

バッタン様。元は大人が子どもにわかるよう、言い出したものだろう。梭が縦糸を通り抜けると、機がバッタンと音を立てて織物ができていく、したがってバッタン様。これなら子どもでもわかる、江戸ならではの、ビジュアルな、うまい表現だ。そこで、梭が織物になくてはならないように、人間の社会でもこの役割を果す人がいて初めてうまくいく――こう教えた。

今日的な表現を使えば、企業のプロジェクトリーダー、あるいは職場の宴会幹事、異業種交流会の幹事などの役割に当たる。全体の流れを抑えながら、かゆいところにまで気を配り、手を届かせる、そんな存在はいつもみんなから一目置かれた。平たく言えば、限られた予算を上手に切り回し、みんなが満足し、納得する会合を作り出すプロデユーサーを江戸の連や講は、いつも育成していた。

(誕生と系譜 第28話了、桐山)

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