シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜【下】

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第25話「寺子屋」

武家の子弟

会津藩の場合、男子は6,7歳で寺子屋に入り、書道や『論語』の素読を学んだ。また「什(じゅう)」と呼ぶ10名前後の小グループに属し、9歳のリーダーの下で遊ぶ。はじめと終わりには7ヵ条からなる「什の掟」を読み上げた。有名な「ならぬものはならぬ」はこの締めくくりにある。

1805(文化2)年には『幼年者心得之廉書十七ヵ条』を制定、躾の規範とした。

「年齢に応し座中を掃除し、客の設け等致すべし」
「すべて学習のこと先ず貌(ぼう)を正しくし、己を謙(へりくだ)り敬いて其の業を受けるべし」

藩校の「日新館」に入るのは10歳。顔を先生にきちんと向けて、気を引き締め、謙虚に、敬いつつ教えをうける、すでに、ひとかどの武士の卵ができていた。

実学を重視

余談だが、江戸時代の子弟教育は学問だけに偏らず、実際の生活場面でのルール体得を大切にしていた。会津藩における「什」と同様な、子供たちの集団「若衆組」が各地に見られる。武士に限らず、町人や農民の間にもこの種の集団があったのは、それだけ、実学の大切さをわかっていたせいだろう。

先に中江藤樹について見たように、ここにも実学を重んじる藤樹の影響が見られる。実際に、会津は藤樹学が盛んだった。林田明大さんは会津で豪農たちが「師友の交会(つどい)」を開いていた例を指摘している。

「人々が藤樹学のリーダーである郷頭、肝煎りの家に集まり、史書や『考経』を読み聞かせるほか、人間関係のトラブルや農作業にかかわる問題を話し合った。本音を出し合ってお互いの向上、体得に努めた」

江戸で二見直養が藤樹学のリーダーとして活躍したのは1700年-1730年頃だ。大いに影響を与えていよう。藩校では『論語』の素読から入って『大学』、『中庸』、『孟子』と順に四書五経の学問を進める一方で、剣術、総術、馬術、水練、鉄砲などの武術が必須科目。人格教育が基本で知識教育ではなかった。ただ、利に関しては忌むべきものとの考えが強く、経済に無頓着になりがちだったようだ。『江戸の遺伝子』(PHP研究所)の著者で、世が世であれば18代将軍になっている徳川恒考さんが07年秋、日本記者クラブでの講演で述懐していた。

町人の子弟

では、本論の主題である町人はどうだったか。師匠は浪人、医師、僧侶、神官、本業を引退した文化人、教養豊かな婦人など。人格形成に重きをおいたのは武士の子供と同じだが、その上で実学に力を入れた。師匠は子供と一対一の師弟関係を結び、一人ひとりがそれぞれのプログラムで学んだ。作家・北原亞以子さんの、一連の直木賞受賞作『恋忘れ草』(文芸春秋)の中のひとつ、『恋風』の冒頭に興味深い記述がある。

「去年弟子入りしてきた子供たちが、掛け算の九九を暗誦している横で弟子入り三年目の子供たちが、大福帳を真似た帳面を繰って算盤をいれている。昼前の稽古で、九月一日江戸屋、二日品川屋、三日川崎屋など手習いをかねた文字を書かせ、その下へ思い思いに売り掛けの数字を書き入れさせたのだった。計算が終われば合計を其の終わりに記し、隣に座っている子と帳面を取り替える。米問屋の主人や内儀になったつもりになれと言われて、女の子までが面白がっているようだった。」

寺子屋

寺子屋の発生は室町時代までさかのぼれるそうで、寺が檀家の子弟を教育したのが起こりという。入門時に持参する「束脩」は中国で干し肉をわらに縛って先生の下へ持参した故事に倣った。授業料・月謝に当たるのは「謝礼」。現金、米、酒、野菜など、土地柄や親の財力によって幅広かった。すでに見たように、一般には、入学は2月の初午の日。文机は親が誂えて持参した。

「あしたから手習いだあとたたいてる」
「だだっ子に柄樽(えだる)をつける初の午」
「目の明くもいづれ稲荷のいの字より」

日頃から躾は厳しかった。しかも、来客の応接、庭掃除、書き損じた反古紙の後片付け、履物の整理整頓などが順番に回ってきた。とはいえ、そこは子供。いたずらをしすぎて湯飲みと線香を持って机の上に立たされる「捧満(ほうまん)」の罰があった。本の挿絵にはさまざまな子供たちの生態を見ることができる。
寺子屋の授業は五つ時(午前7時半ごろ)から八つ時(午後2時ごろ)まで。時には弁当を持参した。家に戻ってきて食べる「おやつ」は、この八つ時から来ている。その後の過ごし方は自由だが、習い事がかなりあったようだ。

身近なビジネススクール

寺子屋の風景は歌舞伎『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の寺子屋の段にもうかがえる。題材は菅原道真を扱い、平安時代のものだが、実際は江戸の寺子屋そのもの。この作品は、当初は人形浄瑠璃で初演は1746(延享3)年、大阪竹本座で大当たりした。翌年、江戸肥前座でも百日を越すロングランとなった。寺子屋の師匠たちに割引券を配った事が功を奏したようだ。歌舞伎化されたのはその直後という。折からの寺子屋ブームが目に見える。

入学から5,6年は「読み、書き、そろばん」に加え、「見る、聞く、話す、考える、人の上にたつ心得」などを学んだ。先に見た、中江藤樹が強調した「視、聴、言、動、思」の見事な具体化である。実学では社会の中で生きていくための知識や習慣、手紙を書くときの挨拶や冠婚葬祭の儀礼、商売に必要な書類の作り方、地理や付近の街道筋の地名などを学んだ。

往復書簡の形で学ぶ季節の行事や生活の事典となる『庭訓往来(ていきんおうらい)』を共通教材に、商人の子供は『商売往来』、職人の子供は道具や材料にも踏み込んだ『百工往来』『大工注文往来』、農村であれば季節ごとの農作業に触れた『農業往来』、漁村であれば『浜辺小児教授』『船方往来』など。言ってみれば今はやりのビジネススクールである。教材作りには十辺舎一九や滝沢馬琴、葛飾北斎も参画した。

九十九庵の場合

もちろん、当時は文部科学省のような役所はないから、寺子屋で教える内容は地域によって微妙に違う。以下は先に見た九十九庵の例である。

1841年、7歳で入門した船津伊八は12歳までに『名頭字(人名集)』、『村名』、『国尽(づくし)』、『年中行事』『借用証文』『御関処手形』『田地売券』『東海道往来』『五人組条目』『妙義詣(もうで)』『手紙』を学んだ。12歳になってからは『商売往来』、翌年は『百姓往来』、14歳時には仕上げで『世話千字文』となっている。世話千字文の内容をみると、今の大人でも読みこなすのは難しい。妹のなほは9歳の1848年正月に入門、『名頭字』『村名』『国尽』の後、雅文体の『年中行事』と女子専用の道徳書、『女今川』を14歳までに履修した。

こうした教材以外に諺(ことわざ)もよく登場した。中国の古典に学んだもの、日本独自のもの、いろいろあった。短い言葉の中にものの考え方や教訓をさりげなく入れ込んだ先人の知恵で、手っ取り早く、物事の本質を伝える機能を果した。

寺子屋での勉強は12-14歳までに終え、親元を離れ、住み込みで仕事の見習いに出る。商家なら丁稚奉公、職人なら年季奉公。他人の釜の飯を食べることで、仕事と世間を知った。約10年間、勤め上げると一人前で、親元に戻るか、独立するか、さらに勤め先で出世を目指すか、選択肢はいろいろあった。

(誕生と系譜 第25話了、桐山)

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