シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜【下】

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第24話「余力学文」

戦後の子育て

今の子供たちは、気の毒である。「気づき」も「気働き」も不十分。仮に気付いても身体、つまり行動が伴わない。外見だけ取ってみても、大学生が高校生、大学院生がようやく大学生並みにしか見えない。

その理由は、戦後、日本という社会が、国が子育てに失敗したからである。かつては15歳までにマスターすべきだったことどもができていない。親がだらしないし、地域としても、そうした教育をするシステムがない。このため企業は採用後、あわてて社会人教育を施すという本末転倒のことが起きている。

ここで問われるのは、人間という存在は何なのか、何のために勉強をするのか、ということである。そして、どのようにして自立心を持たせるようにするか。
日本人が本来持っていた、倫理性が高く、勤勉で、緻密な頭脳は国際社会にとってたいへんな脅威だった。米国に主導されたGHQがそうした日本人像を壊そうとした理由はわからないではない。

かつて日露戦争の終結に一役買ったルーズベルト米大統領は、その後、一転、米国への日本移民を拒否、小村寿太郎外相に満州への進出を勧めた。すでに日本脅威論が存在していた。だからこそ、高度成長期には、またぞろ国際社会から日本批判が強まった。それに応えたのが、ゆとり教育である。進んで日本人破壊に協力した文部官僚の選択がいかに馬鹿げたものだったか。

江戸時代、朱子学の台頭で、学問する意味を否定されかけた町人や農民たちは、いかにしてその圧力をしのいだのか。大人たちは過去の経験を吟味し、子どもたちに自覚を促す方策を講じるべきだろう。

「余力学文」

江戸時代、数えで7歳か8歳になると、武士の子供は私塾、もしくは藩校に、商人や職人、農民の子供は寺子屋(手習い所)に行った。統治の側に立つ武士に明確な目的意識があった。これに対し、商人や職人、農民がいかにして学ぶことに意義を見出していったかを探ってみたい。

寛政(1789-1801)の改革を期に、改めて朱子学を官許の学と確認した江戸幕府は建前上、「お上の言うことはすべて正しい」という統治の理論を獲得した。しかも札差に対する棄捐令の実施で旗本・御家人たちの借金を棒引きにし、経済活動の首根っこを押さえた。1750年前後から江戸っ子を名乗り、町人文化を謳歌していた人びとにとっては、経済、文化両面からたいへんな事件であったに違いない。

ところが、これに異を唱えたのが、人間の自由な心の動きに注目した陽明学である。かといって、誰もが表立って陽明学に賛意を表するわけにはいかない。そこで何が起こったか。寺子屋の師匠たちによる『論語』の読み替えである。すでに見た『江戸の教育力』を参考にその実際を見ていく。結論を先取りすれば、彼らは「余力学文(よりょくがくぶん)」という思想にたどり着くのである。

なぜ学問をするのか

町人や農民はなぜ学問をするのか。その根拠となるのは、、、、以下の記述は『江戸の教育力』によるところが大きい。

『論語』(衛霊公第十五)に「子曰く、教え有りて類無し」とある。
その意味は「あるのは教育であって人間の種類というものはない。つまり人間はすべて平等であり、平等に文化への可能性を持っている。誰でも教育を受ければ偉くなれる」そして『論語』(陽貨第十七)では「子曰く、性相い近き也。習い相い遠き也」

この意味は「性とは人間が普遍に持つ先天的な性質であって、それはそんなに個人差がなく、相互に似通い相互に近きものである。ただ後天的な習慣、それによって人間には種類の差ができ、お互いに遠きものとなる」また、『中庸』の冒頭にこうある。「天命之謂性。率性之謂道。修道之謂教」通常の読みは「天の命之を性と謂う、性に率(したが)う之を道と謂う、道を修むる之を教えと謂う」。が、各地を渡り歩いて農民を指導し、下総国香取郡長部村(現千葉県旭市)で自決した大原幽学(1797-1858)はこう読み替えている。「天命の之くを性と謂う、性に率い之くを道と謂う、道を修め之くを教えと謂う」。之を‘ゆく’と読んだところに特徴がある。人間性は教育によって変えられるというのである。

朱子学では「性即理」とし、性は変えられないとする。ところが陽明学では「心即理」とし、人間は磨けば変わるとする。大原の工夫がそこに見て取れる。北関東上州勢多郡原之郷村(現群馬県富士見村)の寺子屋九十九庵(つくもあん)の二代目、船津伝次平は「性に率(したが)う」を「性を率(ひき)い」と読み、性は創意工夫で変えられるとした。

寺子屋の師匠たち

こうした考察を経た上で、寺子屋の師匠たちは『論語』(学而第一)の中に「余力学文」を見出す。

「子曰、弟子入則孝、出則弟、漢而信、汎愛衆而親仁、行有余力、則以学文」

読み下し文および解釈は吉川幸次郎氏の『論語』(中国古典選・朝日新聞社)によると、

「子曰わく、弟子(ていし)、入りては則ち孝、出でては則ち弟、謹んで信。汎(ひろ)く衆を愛して仁に親(ちか)づき、行ないて余力有らば、則ち以って文を学べ」
「若者よ、父母のいる奥の間では孝行。兄弟たちのいる表の間では弟(なかよ)かれ。万事に気をつけて、嘘をつくな。人びとと広く交際しながら、人格者に親しめ。以上のような実践をして、余裕があれば、本を読め」

実際に、富士山の東麓、駿州駿東郡吉久保村(現静岡県小山町)の寺子屋師匠、湯山文右衛門(1768-1846)のモットーは、この余力学文だった。湯山家には、筆子で後に書家になった室伏良庵が揮毫した扁額が現存している。

また、『江戸の教育力』の著者、高橋敏さんは、興味深い文言を発見している。湯山とほぼ同時代、御殿場村で医者をしながら寺子屋を開いていた渡辺宋俊家の蔵書を入れた文箱の表書きにある。表書きを書いたのは4代目宋俊(1795-1872)。

「孝余力有則 開以可読之 此書見而一以可貫之」
「孝余力有れば則ち開き以って之を読むべし、此の書を見て一以って之を貫くべし」

つまり、先に見た「余力学文」と、『論語』(里仁第四)のくだり、「吾が道は一(いつ)以って之を貫く」をふまえたもので、筆子たちに本を読む心構えを諭している。親に孝行すれば蔵書の四書五経や心学書を読んでよいと呼びかけたわけだ。蔵書の内容を示すふたの裏には『経典余師』や石田梅岩の弟子、中沢道二の『道話』も何点か書き込んである。当時の学問の広がりようが伺える。

(誕生と系譜 第24話了、桐山)

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