シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜【下】

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第23話「江戸の子育て」

江戸の子育て

子育てについて触れたい。これまでこのシリーズに何回か登場した中江藤樹が1647(正保4)年、出版した女性向けの『鏡草』の中で「子育ては胎教から始まる」と説いている。古代中国の王朝、周は王季の后、大任が胎教につとめた結果、この文王は聖徳明らかで、周王朝が800年も続く元をつくったとした故事による。
江戸の人びとの子ども観は、実に、含蓄のあるものだった。今なら科学の力でそれなりの説明ができる。それを観察力だけで、本質を的確に突いている。
人間は脳と体、心の三つからなっている。心は操り人形の糸のようなものである、という。
その意味は、「心を乱暴に働かせれば、言葉も乱暴になる。表情は険しくなって、動作や振る舞いも荒くなる。3歳までに1回1本として、3年かけて1000本張れるようにする。じっくり、じっくり時間をかけて育つということが基本だ」ということに落ち着く。

「チョチチョチ アワワ カイグリ カイグリ トットのメ(手打ち手打ち あわわ 回繰り 回繰り 魚の目)」。

赤ちゃんがもの心つくと、大人たちはかわるががわる、こういってはやし立てる。本人にとっては、迷惑かも知れないが、知恵の発達には大いに貢献すると信じられてきた。その始まりは江戸時代にまでさかのぼれる。

「ぬしさまの わすれがたみの チョチアハハ」
「方ぼうで かぶり仕て来て だるい首」
「這えば立て 立てば歩めの 親心」

三つ心、、、

江戸幕府を開くにあたって、家康が出版事業に力を入れた成果が、このあたりに出てきているのかもしれない。
実は、家康は「関ヶ原の合戦」の前年に、10万本を超える木の活字を足利学校の学頭に作らせ、『貞観政要(じょうがんせいよう)』『孔子家後』『六韜』『三略』『周易』などを出版した。いずれも帝王学を学ぶためのものだった。
また、家康は大御所として駿府に移ったあとも、銅活字を、やはり10万本強、鋳造させ、『大蔵一覧』『群書治要』などを刊行した。こうした政策は大変な出版ブームを引き起こした。100年後の元禄時代には年間4000点強の出版物が出たという。もちろん、まだまだ書籍は高価だったから、貸し本屋が大いに繁盛した。
ただ、江戸時代の本は読者の理解を容易にするため図版をたくさん使った。このため活字よりも版木を使った印刷のほうが主流になっていく。しかし、これも出版ブームに火をつけた家康がいたからこそ、実用本の世界が花開いたと思えば合点がいく。

『経典余師』

商人の子育てに関し、江戸時代には、こんな言葉があった。

「三つ心、六つ躾、九つ言葉、文十二、理(ことわり)十五で末決まる」

三つ心は3歳までに子供たちの人格は決まってしまうから十分に愛情を注いで、人に思いやりのある子に育てよ。
六つ躾。6歳までに挨拶の仕方や箸の持ち方から始まって一通りの躾を済ませておけ。
九つ言葉。9歳までには、どんな人にも失礼でない言葉遣いができるようにしろ。
文十二。12歳までに、いろは48文字の手習いから始まって数字、納品書、請求書、苦情処理書など、さまざまな用途にわたる手紙の書き方をマスターしておけ。
理十五で末決まる。15歳までに、暗記ではなく、こうした諸々のことが理解できるようになっていないと、将来、商人として使い物にならないぞ。こんな意味である。
子育ての目標を年齢ごとに区切っているところがすばらしい。

通過儀礼

「7歳までは神のうち」「子どもは国の宝」。こんな言葉が残っているように、日本人にとって子育ては、親兄弟はもちろん祖父母、近所の人びとにとっても一大事業という認識が強かった。だからこそ、ことあるたびに子育てが大事な事を周囲で確認し、本人にも自覚させる「通過儀礼」を用意した。
たとえば妊娠5ヵ月で帯祝いをし、誕生後、お七夜に命名式をする。亡くなった人が初七日で黄泉の国に行くのに対応したもので、お七夜は生まれてきた赤ちゃんをいったん神様に預け、3歳の誕生日に戻してもらう儀式と対になっている。生後、男子は30日、女子は31日でお宮参り、100日目ないし120日目にお食い初め(箸初め、箸教え、真名初め、百日=ももか)、そして初節句、七五三の祝い、、、、、と続く。

七五三

江戸時代の七五三の祝いは11月15日か冬至の日と決まっていた。その内容は今日とだいぶ変わっている。当時、髪の毛は誕生直後から3歳になるまでは男女の区別なく、剃っていた。前述したように神様に預けているからだ。
3歳になると「髪置きの祝い」と称し、後頭部の髪を残した。一人前の子供になった証明だ。行く末は元気で健やかに育つよう、御魂を入れてもらう。「三つ子の魂百まで」はここから来ているそうだ。祝い事には赤飯を炊き、南天の葉を添えた。ただ、俗説で、三つ子を水子と読み直し、胎児のときから養育は始まっているとして「水子の魂百まで」ともいう。
男子は5歳で袴をはく「袴着の祝い」。元来は武家の行事だったが、町人にも波及した。女子は7歳になると、紐の代わりに帯を使う「帯解きの祝い」をした。町家の行事で、女性という認識が始まった。すその長い着物を着るので、父親か鳶の頭が肩に乗せた。

「髪置に 庭の南天 坊主にし」
「袴着にや 鼻の下まで さっぱりし」
「袴着は武家 帯解は町」
「帯解きは 男を尻に 敷きはじめ」

ところで、七五三につき物の「千歳飴」。柳亭種彦の随筆『還魂紙料(すきかえし)』には元禄・宝永年間(1688-1710)ごろ江戸の七兵衛という飴売りが浅草で売ったのが始まりと記されている。
稽古事は6歳の年の6月6日に始めるのが普通だった。寺子屋に行くのは7歳か8歳を迎えた2月の初午の日。
もっとも、芝さんによると、江戸の商人の子弟を対象にした一部の寺子屋では、6歳の6月6日に入学、一足早かった。「入学に当たっては2時間、師匠の話を聞く我慢強さを要求された」という。「男あるじ、女あるじづくりを意識した」。
ともあれ、先に見たように、子供たちは成長段階に応じた養育を経て、男子は15歳を期に元服、髪形を変え、幼名に替わる成人名をもらった。女子は一足早く13歳で十三参りをし、成人扱いになった。

5年早く大人になった

形を変え、名前を変え、心構えを入れ替えることで、まさに身も心も大人になっていくのだ。人に言われなくても自発的に自己啓発をする、新しいことに挑戦する、自立心がこうして育っていった。
余談だが、赤ちゃんがむずからず、いい子をしているとき、「おとなしい」という。この語源は「大人しい」つまり「大人らしい」から来ている。
戦後、社会規範が薄れ、家庭環境がおかしくなり、きちんと子育てをする意識が希薄になった。この結果、若者たちの間でフリーセックスが横行、妊娠しても病院にいかず、産気づいてから病院に駆け込む馬鹿な母親が増えている。そんな母親の下で、どんな子どもが育っているか、想像がつこう。
とすれば、自治体がやっている成人式が荒れるのも、ある意味では、無理もない。きちんと積み上げた通過儀礼があってこそ、成人式の意味が出てくる。しかも、数えの15歳で大人扱いした時代と満20歳でようやく大人扱いする時代では、5年の開きがある。日本人の気力、忍耐力、胆力、学力が近年とみに落ちている背景にはこの5年の差が大きく響いている。

(誕生と系譜 第23話了、桐山)

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