シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜【下】

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第22話「情報ネットワーク」

『浮世風呂』

江戸時代が山田方谷のような人物を生んだ背景には、これまで見てきたように、中江藤樹に端を発した、石田心学や懐徳堂など成人向けの教育機関があったことが大きい。
しかし、その前提として、寺子屋をはじめ地域社会が有為な人材を養成し、鍛える仕組みが出来上がっていたことを見逃すわけにいかない。そこで活躍したのが書籍である。

一例を挙げる。式亭三馬の『浮世風呂』(1809)の一節に、こんなくだりがある。

「田舎者でござい、冷物(ひえもの)でござい、御免なさいといい、あるいはお早い、お先へと演(の)べ、あるいはお静かに、おゆるりなどという類い、すなわち礼儀である、、、、」

ここには人間関係を大切にする気遣いと実際の行動が見事に身についている人々がいる。しかも、その実際が本を通じて繰り返し、世間に広まっていった構図が見える。

家康と出版ブーム

江戸幕府を開くにあたって、家康が出版事業に力を入れた成果が、このあたりに出てきているのかもしれない。
実は、家康は「関ヶ原の合戦」の前年に、10万本を超える木の活字を足利学校の学頭に作らせ、『貞観政要(じょうがんせいよう)』『孔子家後』『六韜』『三略』『周易』などを出版した。いずれも帝王学を学ぶためのものだった。
また、家康は大御所として駿府に移ったあとも、銅活字を、やはり10万本強、鋳造させ、『大蔵一覧』『群書治要』などを刊行した。こうした政策は大変な出版ブームを引き起こした。100年後の元禄時代には年間4000点強の出版物が出たという。もちろん、まだまだ書籍は高価だったから、貸し本屋が大いに繁盛した。
ただ、江戸時代の本は読者の理解を容易にするため図版をたくさん使った。このため活字よりも版木を使った印刷のほうが主流になっていく。しかし、これも出版ブームに火をつけた家康がいたからこそ、実用本の世界が花開いたと思えば合点がいく。

『経典余師』

『論語』が日本人の精神形成に大きな役割を果してきた事実を、これまで、いくつか見てきた。中江藤樹や石田梅岩が弟子たちともども、影響力を発揮した。
しかし、誰もが漢文を読めたわけではない。『論語』を理解するための、ありがたい助っ人の存在も見逃せない。その助っ人は『経典余師(きょうてんよし)』。著者は渓百年(たに・ひゃくねん)。1786年、発行された『論語』を皮切りに始まった四書五経の平仮名による読み下しシリーズ。33年後の1819年には『易経』が出ている。
上段がひらがな入りの読み下し文で、下段に本文と注釈を施してある。後で取り上げる寺子屋の師匠の間では、とりわけ評判がよかった。ありがたい教本になった。
『経典余師』の登場に関して、『江戸の教育力』(ちくま新書)の著者で教育史学者の高橋敏さんが愉快な話を紹介している。

「漢文を簡単に読めるようになった結果、書生は怠け者になり、反対に町や村の役人や寺子屋の筆子(ふでこ。当時、生徒をこう呼んだ)が恩恵を受けた。経典余師の売れ行きと寺子屋の誕生・普及はよく比例している」

情報ネットワーク

各地の豪商や豪農たちが、この種の書籍を集め、地域の人たちに公開する私設図書館を次々に設けた功績も無視できない。やはり、『江戸の教育力』からの引用である。

「絹で経済力をつけた桐生には長沢仁右衛門紀郷がつくった『潺湲舎(せんかんしゃ)』があった。絹買次・酒造・質屋などを営む傍ら町の組織や領主の御用達をしていたが、没後の1819(文政2)年に商売は破綻した。その折、四書五経など売りに出た書籍が110両で処分されている。余師本は『弟子職』、『孝経』の2冊が含まれていた」

私設図書館には地元だけではなく、各地から本を借りに来た事実を示す貸出帳簿が残っている。近隣に住んでいれば自分で足を運んだし、遠方の場合は飛脚や幸便に託した。

(誕生と系譜 第22話了、桐山)

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