シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜【中】

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第21話「理想の商人像」

山田方谷

こう見てくると、山田方谷(1805-1877)はある意味で江戸時代が作り上げた理想の商人像といっていい。

幕末、備中松山藩(岡山県高粱=たかはし=市)で財政改革に成功、名を上げた。のみならず、方谷は就任当時、10万両(1両を15万円と見ると150億円)あった借金をわずか8年で全額返済したうえ、同額の10万両の財産を残した。武家出身の門閥官僚たちがさじを投げたプロジェクトである。それを引き受け、見事に成功させた。その功績は全国に方谷の名をとどろかせた。

江戸では三代将軍、家光が1635(寛永12)年から参勤交代を制度化した。全国各地から集まった各藩の留守居役は幕府や他藩の動向を知るため情報交換を活発に行った。そのための茶屋は江戸市中に40件を越えたという。巨大な消費都市がこうして形成されていった。主な通信手段は手紙で、電話やインターネットなどはない。交通手段も徒歩で、新幹線も自動車もない。しかし、江戸はすでに情報都市として重要な役割を果していた。方谷の成功はまたたく間に国許に送られ、生かされていく。

見事な改革策

方谷がとった改革の方策は「情報公開」、「緊縮財政」、「殖産興業」の3点からなる。まず、藩の財政事情の悲惨さを公開、再建の方向性を示したあと、債権棚上げを豪商たちに取り付けた。その上で、特産品の鉄を活用、備中鍬をはじめオリジナルの農機具を相次いで開発、江戸に直接届け、販売した。大阪を経由すると取られる中間マージンを省き、利益率を高くした。

再建のめどをつけたところで藩札の信用回復に取り掛かった。財政破綻状態で紙くず同然だった銀五匁札を額面どおり、正貨に交換し始めた。交換期間はあらかじめ3年と定め、回収した藩札は公開で償却処分した。パブリシテイー効果まで十分計算したパフォーマンスだった。その上で新しい藩札を発行したから、信用はいやがうえにも高まった。藩の中だけでなく藩外でも流通した。あの忠臣蔵で名高い赤穂藩の城代家老、大石蔵之助が藩主の悲報を聞いてまず手を打ったのが藩札の回収で、藩の信用を保った、という故事に学んだ。

河井継之助

後に越後長岡藩の家老として幕末、北越戦争で悲劇的な最期を遂げる河井継之助(1827-1868〕が若いころ、わざわざ高粱まで尋ねてきて、方谷の教えを受けた逸話がある。司馬遼太郎の小説『峠』(新潮社)の主人公にもなっている。ちなみに、河井継之助の事跡である。1867(慶応3)年10月、徳川慶喜が大政奉還を行ってから事態は急変、一挙に討幕派の勢いが増す。

これに対し、河井は‘武装中立’を唱えたうえで、奥羽への侵攻を思いとどまるよう、新政府軍監、岩村精一郎に迫った。河井の本音は「戦いは無用のもの、穏やかに治めるべきだ」にあった。しかし、岩村は会津征伐の先頭を切らない限り、その存在自体を認めないの一点張り。河井にとって不幸だったのは、交渉相手が、若年で、功をあせるだけの人物だったことだった。もともと聞く耳がなかった。こと、ここに至ってはということで、河井は奥羽越列藩同盟に加わり、北越戦争の火蓋が切られた。主体的に状況を切り拓いていこうとする激しさは、師匠譲りというべきか。

明治政府への任官断る

方谷は最後の将軍、徳川慶喜が朝廷に差し出した大政奉還の建白書を起稿した張本人でもある。藩主が老中の職にあったせいもあるが、それだけ陽明学者として学識と見識の高さを評価されていた。方谷に対しては、財政に関する見識の高さを認めた明治新政府から、何回も高位高官につく打診があったとされる。しかし、一切応じようとしなかった。二人の主君にまみえずとして、潔かった。

米という実物経済から金融という信用経済に様変わりした状況の中で、方谷のような有事に対応でき、かつ、確固たる自己をもつ経世家、大商人が育っていたのが、当時の江戸という時代だった。陽明学という実践的な思考と行動を重んじる訓練を重ねていたからこそ、できたのだろう。

ついでに言えば、方谷が活躍した高粱市には全国で唯一、個人名がついたJR方谷駅がある。地元民が方谷の名を残そうと陳情した結果という。また、この地は映画『男はつらいよ』に、しばしば登場する、自然豊かな土地柄でもある。

(誕生と系譜 第21話了、桐山)

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