シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜【中】

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第19話「懐徳堂と逸材たち」

含翠堂

商人のあるべき心構え、あるべき行動原理とは何か。「寛政の改革」よりはるか前に、元禄バブルで沸きあがる商人批判に答えようする動きが、大阪で始まっていた。豪商たちが共同出資の形で商人の子弟や一般の町人のために学問所を用意したのだ。

彼らは自分たちが存在するよりどころを求めるとともに、後継者育成を兼ねて、いかに生きるべきか、真剣にならざるを得なかった。

幕府は一足早く、1690(元禄3)年、江戸に昌平黌を建てた。これを期に各藩も藩校を設置し始めた。町人たちも寺子屋以上の教育を必要とし始めていた。

大阪平野郷の「含翠堂」。1717(享保2)年にできた町人の子弟の学問所。大阪の自治を担った七名家のひとつ、土橋友直らが設立した。大阪平野郷は堺の影響を受け、商人たちによる自治が進んでいる地域として当時から名が高かった。

大阪で豪商たちが共同出資の形で商人の子弟や一般の町人のために学問所を用意する動きが出てきた。

陽明学中興の祖、三輪執斎が江戸、古義学の伊藤東涯が京都、三宅石庵や五井持軒が大阪から、それぞれ招かれた。五井は、四書を読めというのが口癖で、四書屋加助というあだ名がついている。

ちなみにこのシリーズでよく登場する四書五経とは、四書が『論語』『大学』『中庸』『孟子』、五経が『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』である。

当初は子弟たちが放蕩息子にならなければよいと、修養のために始まったともいわれるが、含翠堂は1872(明治5)年、平野小学校が設立されるまで続いた。

懐徳堂

ついで、1724(享保9)年、「懐徳堂」が船場に設立された。1869(明治2)年に閉鎖されるまで約150年間続いた。後に緒方洪庵の適塾にも繋がる学問所だ。

『豪商たちの時代――徳川300年は「あきんど」が創った』(脇本祐一著、日本経済新聞社)によると、創立にかかわった道明寺屋吉左衛門、船橋屋四郎右衛門、三星屋武右衛門、備前屋吉兵衛、鴻池又四郎の五人は両替商、醤油醸造業、材木問屋、木綿問屋を営んでいた。

道明寺屋、船橋屋、三星屋はいずれも三宅石庵の門人で、含翠堂の運営方法を目の当たりにしたことが設立のきっかけになった。2年後には道明寺屋が提供した用地を幕府に上納する形で許可を得、大阪学問所と称した。

初代学主の三宅石庵は柔軟な発想の持ち主だった。幅広い教養を身につけたいと考えていた大阪町人にとって、きわめて魅力に富んだカリキュラムを用意した。官許もあって朱子学は教えたが、陽明学、古義学など、他の学問のいいところを何でも取り上げた。商人らしい実証主義が基本的なバックボーンになっていたといってよい。

授業料は不要、出席、退席も自由で、当初の「定(さだめ)」には、書物を持たなくても講義を聴いてよい、途中出席もかまわない、席次は武家方を上座とするが、講義開始後は身分を問わない、とあった。

三代目学主、三宅春楼が1773(安永)年に作った「定」の第1条には平等感覚がより進んで、「書生の交(まじわり)は貴賎貧富を論ぜず、同輩と為すべき事」とある。いわゆる社会的な地位や貧富は関係ない、としたことも多くの人材を生み出す要因になった。

寛政の改革に直面しても懐徳堂が輩出した人物たちに動揺のあとは見られない。むしろ、自由闊達に全国を飛び回り、諸藩の財政改革に力量を発揮した。

三人の逸材

懐徳堂から巣立った人物の代表格としては山片蟠桃(1748-1821)がいる。仙台、館林、川越各藩の財政再建に貢献した。天明期から文化・文政期にかけて大阪の豪商「升屋」の番頭として主家の経営を立て直した実績により招かれた。蟠桃は『夢ノ代』を現し、日本で最初に地動説を唱え、太陽暦の採用や無神論を展開したことでも知られる。

余談だが、大阪府は作家、司馬遼太郎の推挙もあって、日本文化の国際的通用性に関する海外の研究者のために「山片蟠桃賞」を設けている。1982年、初の受賞者にはドナルド・キーンさんが選ばれた。

もうひとり、草間直方(1753-1831)。鴻池本家に奉公のあと、1808年に鴻池一統として大阪・今橋に両替商を開いた。大名貸しを通じて盛岡、熊本、佐賀藩などの財政顧問を務め、市場経済の重要性を主張した。幕府が財政破綻を回避するため豪商から「御用金」を徴収、諸藩に資金を融通しようとした政策に反対、退けている。独学で「大貨幣史」をあらわした。

見逃してはならないのが海保青陵(1755-1817)。この人物のユニークさは社会の根本的な原理をすべて売買関係で見るという、合理主義にあった。主従関係すら役務を提供する側とそれを受ける側と割り切っていた。

「ぢかどらまえ」

海保青陵は、あの海援隊を組織、維新回天に力を尽くした坂本竜馬にも影響を与えている。幕藩体制の下で、藩はひとつの国として他藩と取引きをする、一種の「藩商社論」を唱え、商業の持つ可能性を示した。

たとえば川越藩に献策した絹の売り方。無名のブランドで売り出すより、著名な秩父絹にOEM(相手先ブランドで供給)として組み込んでもらい、やがてその真価が相手先にわかってもらえるようになった時点で、独自ブランドを主張すべきだ、としている。

青陵は丹後の出身。宮津藩青山家に儒家奉公していたときのエピソードがある。経済について献策を求められたが、儒者らしい内容で抽象的だと、父親に二度にわたってダメを出された。苦労した末、経済が豊かになる直接的、具体的な方法をまとめて、ようやくほめられた。

以来、「ぢかどらまえ」と称して、今日で言う「現場主義」に徹して豪農や豪商からさまざまなことを吸収する姿勢に変わった。若いころから商業に関心を持ち、今で言うマーケティングに長けている人間がこうしてできあがった。

(誕生と系譜 第19話了、桐山)

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