シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜【中】

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第17話「視聴言動思を正す」

高弟、熊沢蕃山

藤樹の弟子たちを見ておきたい。幕末に吉田松陰に影響を与えた熊沢蕃山(1619-1691)、その実弟で備前岡山藩の教育行政を担当した泉仲愛らが有名だ。

蕃山は備前岡山藩主、池田光政に小姓役として仕えた後、いったん辞去、1642年に藤樹の下に入門、陽明学を学ぶ。1645年、再び岡山藩に出仕、1641年に全国に先駆けて開校した藩校「花畠教場」を中心に活動した。51年には、その後、70年に日本初の庶民学校として開かれた「閑谷学校」の前身、「花園会」の会約を起草した。教育分野に足跡を残している。

本領を発揮したのは、1654年、備前平野を襲った洪水と大飢饉。藩主光政を助け、救済活動に献身的に力を振るった。治山治水事業による農業政策への貢献も大きい。実践の学、陽明学が大いに役立った。

しかし、急速な改革は守旧派の反目を生んだ。朱子学を官許の学としている幕府の重鎮、保科正之、林羅山にもにらまれて、岡山藩を去らざるを得なくなる。晩年は政権批判が疎まれ、京都を追放されるなど、不遇だった。

再評価を受けるのは幕末。明治維新のイデオローグになった藤田東湖、吉田松陰が蕃山に傾倒した事が大きかった。

心が賎しければ形も賎しい

もう一人の高弟、淵岡山(ふち・こうざん、1617-86)についてみたい。

岡山は70歳で亡くなるまでに、京都、会津、伊勢、大阪、江戸、美作、肥後など24ヵ国で豪商、豪農に中江藤樹の教えを伝えていた。

石田梅岩は淵岡山が亡くなった翌年に生まれている。当時は岡山の高弟、木村難波(1636-1716)が大阪を中心に藤樹学をリードしていた。したがって梅岩は、この木村ら弟子を通じて藤樹学の影響を受けたようだ。

その教えの要点は以下の通りだ。

「心が賎しければ形に表れて賤しく、形賤しければ、心は賤しいものである。つまり、私たちの、良知に至るための工夫と努力は、体を通じてなさるべきで、いわゆる容貌辞気(ようぼうじき、顔かたちと言葉遣い)、すなわち中江藤樹先生が強調したところの五事(『書経』にいう礼節上の五つの大事なこと)貌、言、視、聴、思を通じてなさるべきである」
「善なる行為が、何のはからいもなく行われること。それは、あたかも、水が低きに流れ、炎は上に上るような自然の姿で、良知が人間の心の働きとして付与されているからこそ可能なのである。無為自然の良知を手がかりとして人倫を行う。これを工夫と呼び、行修と称する」

視、聴、言、動、思

「貌、言、視、聴、思」は『書経』にある言葉。古代中国の王のあるべき言行について説いた。貌は相手を大切にし、敬う心を態度(恭敬の態度)を示す、言は素直な言葉を使い、視は見えざる庶民の生活を見、聴は聞こえざる庶民の声によく耳を傾け、思は物事の道理について通じることを指す。リーダーとして謙虚で思慮深いありようを大切にしたことがわかる。

ちなみに、会津藩校「日進館」の躾の規範はこの教えを反映している。

しかし、『中江藤樹 人生百訓』によると、藤樹は門人、谷川子宛の書簡の中で、これを微妙に言い換えている。「視、聴、言、動、思を正す」とした。

「人をよく視る(観察する)、人の話をよく聴く(知識や知恵を授かる)、(相手に失礼のない)言葉遣い、(感情をむき出しにしない優雅な)振る舞い、(じっくり物事を考え、相手に対して思いやりを忘れない)心。この五事を正すように工夫する」ことが「自反慎独」、つまり「自らを省みてひとりを慎む」ことであり、良知になる、明徳を明らかにすることになる、と書いている。

この「視、聴、言、動、思」は商人たちが大切にしてきた「江戸しぐさ」の、ずばり骨格を成す。果たして諸賢は気づいただろうか。やがて寺子屋の教えの原点にもなるものだ。「江戸しぐさ」の本質は中江藤樹が喝破した人間としてのあり方、リーダーとしてのあり方をそのまま引き継いでいる。

また、「善なる行為が何のはからいもなく行われる」とは人間として、リーダーとして発想や行動が一種の癖になっていることを意味している。平たく言えば、毎朝、歯を磨かないと気がすまない、というくらい癖になっている、ということである。

(誕生と系譜 第17話了、桐山)

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