シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜【中】

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第16話「近江聖人」

中江藤樹

石田梅岩が強調し、実際に近江商人に流れている商人(あきんど)精神は、『論語』に大きく影響を受けている。その淵源は中江藤樹(1608-48)に求めることができる。

『江戸しぐさ完全理解』(越川禮子、林田明大著、三五館)や『中江藤樹 人生百訓』(中江彰著、致知出版社)などを参考に見ていきたい。

中江藤樹は近江の農家に生まれたが、9歳のとき、伊予大洲藩士だった祖父の養子になる。学んだのは朱子学だった。母親に孝養を尽くすため27歳のとき脱藩、近江に帰り、酒屋を開く。30歳で伊勢出身の女性と結婚、後に藤樹学が伊勢に広がるきっかけになった。

近江には藤樹の名声を慕って大洲をはじめ各地から若者が集まった。江戸の経済で重要な役割を果した近江、伊勢商人がいずれも中江藤樹の教えと縁があったことも、留意しておきたい。

心学と体認

藤樹はやがて朱子学に疑問を持ち、陽明学派の思想に触れながら『翁問答』をあらわす。

『翁問答』は元来、門人だった大洲藩士、つまり武士のためにまとめたものだ。「天君(てんくん)」という翁と「体充(たいじゅう)」という門人との対話集になっている。

「孝徳とは『愛・敬』の二文字で要約できる。愛はねんごろに親しむこと、敬は上のものを敬い、下のものを軽んじ、侮らないことである」
「侍たるものが儒学を軽んじるのは、物事をしらないというべきで、恥ずかしいことである」
「真の学問とは人の心の汚れを清めて行いを良くすることで、悪い学問とは博学という名誉を望んで、ただ知識を詰め込むことだ」

しかし、その本質は町人であれ、農民であれ、リーダーにとっての心得と読める。体充という門人の名前は心の学を体いっぱいに充満させ、行動に移すという意気込みを示す。机上の議論ばかりしていないで行動に移し、自分自身の体で確認せよと、「体認」という言葉をよく用いた藤樹らしいネーミングである。

「聖賢四書五経の心をかがみとして、我心を正しくするは始終ことごとく心の上の学なれば、心学とも云なり。この心学をよくつとめぬれば平人より聖人のくらいにいたるもの候ゆえに、また聖学とも云うなり」

「心学」という言葉は王陽明に発しているが、このくだりに見るように、日本人で心学という言葉を初めて使ったのは藤樹だ。事例としてよく引用される文章である。

藤樹は、その後、王陽明の高弟、王龍渓の『語録』に出会い、陽明学研究に没頭する。37歳のとき、『王陽明全集』を熟読、ある種の悟りを持ったという。40歳の時には女性のための教科書『鑑草』を出版、翌年、喘息で亡くなった。

「徳を持つことを望むなら、毎日、善をしなければならない。一善すると一悪去る。日々、善をなせば日々悪は去る。これは昼が長くなれば夜が短くなるのとおなじことだ」

藤樹異聞

藤樹の名は源(げん)、字は惟命(これなが)、通称は与右衛門。藤樹は庭にある藤の古木にちなんで門人たちが名付けた。死後、近江聖人と呼ばれた。そのゆえんをうかがわせるエピソードを紹介しておきたい。

その1。ある日、馬子の又兵衛が京都へ上る加賀の飛脚を乗せた。宿へ送り届けて家へ戻ってみると、鞍になにやらズシリ重いものがある。200両の大金だった。
30キロの道のりを取って返し、届けた。公金を失えば、理由の如何を問わず、重罪になる。飛脚は涙を流して喜び、当座のお礼として別の行李から15両を差し出した。ところが馬子はガンとして受け取らない。
金額を10両、5両とだんだん減らしてもだめ。最後に根負けした馬子曰く「ここまで歩いてきた駄賃として200文だけもらおう」。その挙句、この金で酒を買ってきて宿の客たちと酒盛りに。
感激した飛脚がいろいろ訪ねると、「自分は時々藤樹先生の話を聞いている。親に孝を尽くせ。人のものは盗るな。その教えを守っただけだ」。
その2。没後、100年余り過ぎてからのこと。ある武士が藤樹の墓参りの案内を野良仕事中の百姓に頼んだ。すると、途中、自宅に立ち寄って正装に着替えて出てきた。なぜかといぶかる武士。しかし、百姓はあわてず、騒がず、墓前にぬかずくと、深々と頭を下げるのだった。藤樹の遺徳はそれほど永きに亘って生きていた。

(誕生と系譜 第16話了、桐山)

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