シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜【中】

現在表示位置

第14話「石門心学」

石門心学

商人たちは、いかにして抱負、経綸を深め、人生哲学を深めていったのか。本題に戻ろう。

すでに見た時代の変化の中で、商人は自分たちに対する世間の批判に正面から取り組まざるをえなかった。大商人を中心に、自分たちはどう生きるべきか、目覚めるのは当然といえば当然だった。

実は寛政の改革よりはるか前、自分たちのあり方に心した人たちがいた。まず、着目すべきなのは石田梅岩(1685-1744)である。丹波、今の亀岡の農家に生まれた。

11歳で呉服屋に奉公、いったんは故郷に戻った。23歳で再び奉公に出ている。

梅岩が生まれ育った時期は元禄時代の繁栄から崩壊、そして再建の時期に当たる。そうした時代の空気が梅岩にどのような影響をもたらしたのか。ここが勘所である。

京都の借家で、無料講座をはじめたのは、1729年、45歳のときである。後に弟子たちから「石門心学」と呼ばれる、商人のあるべき心構えと行動について説いた。聴衆が多かろうと少なかろうと、その姿勢に変わりがなかった。

もっとも、最初に「心学」という言葉を使ったのは、後述するように、中江藤樹(1608-48)だった。

商人の心得を説く

当時は元禄時代の余熱が残っていた。「商人と屏風は曲がらなければ立たない」といわれるほど商人に対する批判が強かった。

そこで梅岩は「商人が利益を得るのは、武士が禄をもらうのと同じ」と唱え、商人が仕事を通じて利益を得ることは当然のことと断じた。

しかし、そのありようについては「二重の利を取り、甘き毒を喰ひ、自死するようなこと多かるべし」とした。分を超えた利益をむさぼろうとすれば、必ず報いがあるという。そして、あるべき商人像として、「実の商人は、先も立、我も立つことを思うなり」などと、相手方の事をまず優先し、その結果、自分を生かすところに本分があるとした。明快に商人の存在する意義を述べ、その心得を説いた。

梅岩の考え方は、実際に店でお客に接した体験に加え、儒教や仏教、神道などの思想を取り入れたもの。商人の営利活動を積極的に認め、勤勉と倹約を奨励した。商人が「他人を思いやる心、仁」「人としての正しい心、義」「相手を敬う心、礼」「知恵を商品に生かす心、智」の4つの心を持てば商売はますます繁盛する、と説いた。

『論語』が説く五常、つまり仁、義、禮、智、信を踏まえたものであることは明らかだ。内容的には「仏の前では皆平等」から始まり、幕府批判がなかったわけではない。が、幕府は、梅岩の動きを規制せず、むしろ奨励しているところが面白い。

最盛期、180ヵ所

1737年には弟子たちとの問答集、『都鄙問答』を出版している。門人は400人に上った。その中には1765年、京都に五楽舎を開いた手島堵庵(1718-1786)をはじめ中沢道二(1725-1803)、柴田鳩翁(1783-1839)らがいる。

門人たちは京都や江戸をはじめ各地に「心学講舎」を設け、石門心学を普及していった。最盛期、講舎は全国180箇所に及んだという。

梅岩が元禄バブルに対応、「商人の心得」を説いた時代感覚、危機意識はさすがというべきだろう。

もっとも、この石門心学は幕末から明治維新にかけて、急速に衰退を見る。京都学園大学学長で京都大学名誉教授の海原徹さんは「幕末期、長州が一転、禁止した。文部省も普及を喜ばず、解体に動いた」と指摘する。

長州藩の隣にあって、その意向を体現していた津和野藩は新政府で国学を主導した。江戸幕府の存在を否定、天皇を中心に、神道を教学とする明治政府にとって、石門心学は都合の悪い存在だったことになる。

(誕生と系譜 第14話了、桐山)

ページトップへ