シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜【中】

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第13話「寛政の改革」

「寛政の改革」

豪商を先頭に町人たちが創りだした江戸の町人文化が失速した要因は、いくつか考えられる。

ひとつには町人たちの自由享楽ぶりが、ややもすると幕府批判を産み、体制の危機につながる、と幕府側がとらえるようになった。為政者にとって見ると、行き過ぎは常に危険であり、牽制する機会を狙っていたともいえよう。

ある意味では「寛政の改革」は保守派によるクーデターという見方が当たっているかも知れない。

もうひとつには1783年以来続く大飢饉で東北地方を中心に農村が疲弊してきた事情もある。1787年には江戸をはじめ各地で、天明の打ちこわしが起きた。喜捨に応じない豪商が組織的に襲われた。飢饉が元で社会不安が広がりつつあった。

このため、幕府は近郊の村から出稼ぎに来ていた農民に、資金を与えて帰農するように仕向けたり、無宿人らに対する職業訓練を施したりしているほどである。

重商主義を取り、経済の活性化を図ってきた老中田沼意次が失脚した。代わって吉宗の孫で規制派の松平定信が登場、「寛政の改革」を進める中で、時代は大きく変化する。

豪商に痛手

定信は緊縮財政を実施する一方、両替屋の金利免除(1787)、旗本・御家人救済のための棄捐令(きえんれい/1789)などを、相次ぎ実施に移した。

棄捐令は当時109人いた札差を対象にした措置で、5年以上前までの債権を破棄させ、それ以降についても借金の利子を3分の1に引き下げた。要は借金が棒引きになる徳政令である。棒引きになった貸し金総額は118万7,800両、幕府の年間予算に匹敵する巨額だった。仮に1両を15万円とすると、1,780億円余になる。

それまでにも、しばしば借金を踏み倒してきた大名家にとっても、この徳政令は渡りに船だった。同様の措置を要求する有力な根拠になったろう。

建前の上では、棄捐令の実施によって損害を受けた札差などを救済するため資金の貸付を実施したとされるが、その効果はどれほどのものだったろうか。

株仲間や専売制を廃止し、特権商人を牽制したり、米価の抑制のために米を大量に使う酒造業者に対し、生産量を3分の1に制限したのも、規制派ならではの施策だった。

無論、豪商たちは莫大な損を出した。金の流れが止まれば景気も悪くなる。紀伊国屋文左衛門ほどとはいかないが、札差が一晩に吉原で使った金は50両前後だったという。資金の流れがパタッと止まった。それまでの意気軒昂振りは失せ、息を潜めざるを得なかった。

1705年、大阪で得意絶頂にあった淀屋が闕所になった悪夢が、脳裏をよぎったに違いない。

寛政異学の禁

1790年、「寛政異学の禁」が始まった。朱子学を改めて幕府公認の学問とし、学問所においては陽明学や古義学の講義を禁止した。また、蘭学者を公職から追放するなど蘭学も排撃した。

これによって官レベルでは朱子学が統治の学問となり、机上の解釈や理論が優先した。ますます硬直化の道をたどっていくことになる。中国で明時代に朱子学が公認されたとたん、起きた現象と同じだ。

これに対し、民間レベルでは陽明学が実践の中で人間陶冶に役立つ学問として浸透していく。

この違いは、やがて日本の国のあり方や地位、身分の違いを超えた人間のあり方にも影響を及ぼしていくことになる。

幕府批判勢力を利しかねない文芸ものも槍玉に上がった。幕府の政策を批判した黄表紙や軟弱な洒落本も取り締まりの対象になり、作者や版元が次々と上げられていく。

当時の出版界をリードしていた蔦重こと蔦屋重三郎はその犠牲者の一人。

狂歌師、大田南畝の『万載狂歌集』や人気作家・山東京伝の『通言総籬』を出版した。浮世絵の喜多川歌麿(1753-1806)を育て上げた。東洲斎写楽を起用、街中の話題をさらった。かくして名プロデューサーの名をほしいままにしていた。

その矢先、京伝の洒落本が槍玉に上がった。京伝は手鎖50日、蔦重本人は財産を半分没収され、失速した。

噴出した商人批判

商人たちの倒産、没落も相次いだ。それまで陰に隠れていた商人批判も公然化し始める。

幕府学問所の公式学問として承認された朱子学をよりどころに、儒者からの攻撃も激しかった。生きた経済の動きには関係なく、利を生むこと自体が悪であるという、いわば商業や流通の機能を無視した議論がまかり通っていく。

商品を容易に入手できるという、商業の恩恵には浴した。しかし、資産蓄積には程遠い。そんな人びとが、これに輪をかけて批判勢力になった。勢いのあるときは、羨望の的になるものの、一歩足を踏み外せば、やっかみもあって、攻撃の的になる。世の習いだ。

そういえば、元禄時代のバブル崩壊後にも似たような商人批判があった。

(誕生と系譜 第13話了、桐山)

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