シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜【中】

現在表示位置

第12話「年利18%の高利貸し」

落首『当世大間違』

1769(明和6)年の『当世大間違』と題した落首を見ると、このころの世相がよくわかる。

「地主の囲ひもの 禅僧の稲荷詣り」「歴々の駒まわし 町人の活け花」「大名の四つ手駕 足軽の高楊枝」「侍の短か刀 町人の長脇差」「男かんざし 女は茶うら」「飯盛り女の男なぶり」「吉原にふる女郎なし」「旦那はかた本多 草履取りの元結」「具足は質屋 天秤は上へそる」「傘森はおせんではやる」「女太夫の繻子の帯」

落首は庶民が短い言葉に凝縮した社会風刺だ。いずれも、それまでの常識がひっくり返ったことを揶揄したものだ。

たとえば「地主といえば、みんなの模範となるはずのものが、妾を囲っている。傘森稲荷の茶屋『鍵屋』の娘、おせんが人気者だといっても、禅坊主がなんで宗教的に関係のないお稲荷さん詣でをするんだ」ということだし、「本来、戦(いくさ)をする役割を担っている侍が短い刀しか持たず、上納金で苗字帯刀を許された町人が長い刀をもって町を闊歩している」。

活け花ブームは1763年、源氏流の千葉龍卜(りゅうぼく)が仕掛けた。この時期、花簪(はなかんざし)、朱塗りの櫛、象牙の笄(こうがい)がはやった。

「ご主人様は今流行の派手な本多髷(まげ)に現(うつつ)を抜かしている。たかが草履取り風情も髪に元結をつけて気取っている」。「もう戦(いくさ)がないからとはいえ、手元不如意から武士が鎧兜を質屋に引き取ってもらい、米に換えているのに、商人は儲かって儲かって仕方がない。天秤のそっくり返りようをみてみろ」。

米を担保に武士に金を融通する札差の金利は年率1割8分という高金利である。サラ金並みの金利を武士たちは甘んじて受けていた。反面、豪商たちは湯水のごとく金をばら撒き、消費景気をあおっていた。

宝暦・明和・安永・天明(1751-1788)のころ

念のために、この時期、38年間に起きたトピックスを年表から拾ってみたい。

講釈場繁盛、富岡八幡宮のうなぎ料理話題(1751)、江戸千家、醤油酢問屋仲間誕生(1753)、江戸店で金銭横領多発(1755)、団十郎煎餅、川柳、物産会、大相撲番付発刊(1757)、華美禁止令(1759)、軍鶏料理・玉ひで(玉鉄)開店(1760)、冨士講が鉄砲洲に築山奉納、木綿普及(1761)、丁子茶の衣類流行(1763)、日本橋小網町に海苔専門店・山形屋開店(1764)、鈴木春信錦絵創作(1765)、狂歌流行(1767)、町人の間で尺八人気(1768)、「通」登場(1769)
明和のお陰詣り、「江戸っ子」が川柳に初登場、傘森稲荷の茶屋娘おせん大評判、活け花流行(1771)、樽廻船問屋の株式公認(1772)、菱垣廻船問屋の株式公認(1773)、投扇流行、『解体新書』発刊(1774)、「大通」流行(1777)、千社札流行、芸者が振袖、「いき」が流行、三原山噴火(1778)、三原山噴火、黄表紙・洒落本流行(1779)
「十八大通」(1780)、大相撲大繁盛(1781)、浅間山噴火、大飢饉(1783)、天明の打ちこわし(1787)。

粋な遊びの開拓者たち

時事問題を戦記物に託して語る講釈師が登場する一方で、吉原の遊女に現(うつつ)を抜かす大店づとめの犯罪が増えている。団十郎煎餅の登場は歌舞伎の市川団十郎人気の高さを如実に現している。

江戸湾でとれる浅草海苔が定着、海苔の専門店が生まれるなど食生活が豊かになってきた事も、うかがえる。遊びの世界も豊かである。尺八、活け花、投げ扇、それに大相撲見物まで楽しんでいる。家元制度はこの時期に発達した。

知的な刺激も大いにある。錦絵は川柳仲間が中心になって作った連、「大小絵暦交換会」が舞台になって生まれた。中心人物は神楽坂に住んでいた、旗本で俳人の大久保甚四郎忠舒(号、巨川)だった。

その延長線でひねりの効いた狂歌も大流行している。くすぐりの効いた黄表紙、やや風俗モノに傾いた洒落本も貸し本屋を通して広く流布した。

吉原での町人の活躍ぶりが目立つのもこの時期だ。78年に相次いで流行した千社札、芸者の振袖、「いき」を大事にする風潮。

先頭を切ったのは十八大通。このネーミングは団十郎がお家芸を「十八番(おはこ)」にまとめた影響だ。通の上を行くという意味で魚河岸や札差、木場の旦那衆が粋な遊びの開拓者になった。折から樽廻船や菱垣廻船の株公認など商人たちの利権が確保されたことも自信に繋がった。

象徴的な助六芝居

上方で始まった曽我兄弟の仇討ち芝居に着想を得た、助六芝居が江戸に移ったのは1713年。二代目団十郎が23歳で上演している。助六の髪型が大流行するヒットとなった。

2回目の助六上演は1716年。町人が武士をコテンパンにやっつける筋立ては、やんやの喝采を浴びた。

そして団十郎が61歳で33年ぶりに上演したのが1749(寛延2)年3月。黒羽二重の小袖に紅裏、浅葱無垢(あさぎむく)の下着、蛇の目傘、紫ちりめんの鉢巻、腰に印籠と鮫鞘という派手な衣装が定番となり、今に伝わる原型になった。いわゆる寛延助六である。

吉原、魚河岸、札差がこぞって応援したのは、武士に対する鬱屈感というか、わが思いを代弁してくれているからこそだった。

この年、『仮名手本忠臣蔵』が森田座で上演されている。討ち入りからちょうど4年目になる。47年には常磐津節、義太夫節、48年には新内節なども、前後して生まれた。

さればこそ、宝暦から天明期にかけて町人文化が花盛りとなった。しかし、町人が武士に対抗意識を燃やして、意気を示し、吉原の花魁たちが大尽や武士を相手に張り合った、「いき」や「はり」を競う、自由享楽的な風潮は長く続かなかった。

(誕生と系譜 第12話了、桐山)

ページトップへ