シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜【上】

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第11話「助六芝居ヒットの理由」

町人文化の確立

第一次江戸っ子が登場した時期は、たびたび引用している川柳をはじめとして、さまざまなジャンルの文芸が花開いた。まさに町人文化が確立した時代だ。

ちなみに川柳は1757年8月25日に柄井川柳が「万句合」という句会を開いたのが始まり。2007年は250周年に当たった。

俳句は季語を必ず入れ、自然や風情を詠む。これに対し、川柳は季語が要らず、世相や人間をやや斜めから見て、滑稽味を遊ぶ。

いわば選者の名前があまりにも有名になったため、川柳がそのまま歌の代名詞になった。

この伝統は今に続き、生保会社や飲料会社が毎年、川柳コンクールをするまでに一般化している。筆者が創業社長を勤めた日経CNBC の『日経CNBC 株式川柳』も、毎年末の恒例番組になっている。

川柳は短い言葉の中に、その時代を映している。庶民が作った「時代のキャッチフレーズ」とでも言えよう。

助六上演は吉原、魚河岸、蔵前がスポンサー

歌舞伎では二代目市川団十郎が1749年に演じた『寛延上演助六』が助六芝居の原型になった。曽我兄弟のあだ討ちを下敷きに、町人が侍をコテンパンにやっつけ、人気を博す。

芝居の上では場所は吉原。花魁(おいらん)揚巻の恋人、助六(実は曽我五郎)が箱根で殺された義父、曽我祐信(すけちか)の仇討ちをするため、けんかを吹っかけては刀を抜かせている。裕信から奪った源家の重宝「友切丸」の持ち主イコール仇という深謀遠慮だ。ある日、その持ち主、髭の意休が現れ、実は敵である平家の侍、伊賀平内左衛門であることを確認、宿願を果たすという筋書き。

雪駄を履き、蛇の目傘を右腕高く上げ、額に若紫の鉢巻といったいでたちで大見得を切る、助六の衣装は当時の江戸町人のもっとも粋な伊達姿をモデルにしたとされる。蔵前の札差、大口屋暁雨はそっくりそのままの扮装で吉原に乗り込んだ。助六はそれほどの影響力を持っていた。

この助六上演には「吉原」が蛇の目傘、「魚河岸」が若紫のちりめんの鉢巻、「蔵前」がいろいろな積物を寄贈、くじ引きの景品に当てたという。

俗に千両役者という。当時、一日に千両の水揚げを挙げられるのは吉原、魚河岸、そして歌舞伎というところからついたものだ。品は落ちるが、「へその上下、鼻の下」という言い方もある。

ついでに、紹介する。第137回直木賞を受賞した『吉原手引草』(松井今朝子著、幻冬社)は推理小説仕立てで、吉原のしきたりや武士と町人の力関係などがわかり、たいへん面白い。

狂歌

「歌よみは下手こそよけれ天地(あめつち)の動き出(いだ)してたまるものかは / 宿屋飯盛」

古今和歌集の序文をからかった狂歌である。狂歌が流行したのもこの時期。元はといえば和歌から派生したものだが、時世を皮肉り、時には毒やとげがあった。

宿屋飯盛の本名は石川雅望。国語・国文学の学者で小説も書き、本業は旅館の主人。狂歌を詠むとき狂名をつけた。

「秋の夜の長きにはらのさびしさは ただくうくうと虫の音(ね)ぞする / 四方赤良」
「里の子に追いかけられていが栗の 地を逃げまわる風のはげしさ / 朱楽菅江」

狂歌の連には武士や町人、職人など、さまざまな階層の人々が参加した。大田南畝(四方赤良、蜀山人)が率いる「山の手連」、朱楽菅江(山崎景貫)が率いる「朱楽連」などがその中心的役割を果たした。ここでは「連」の存在を意識しておいてほしい。

落語

落語は、この狂歌の副産物的性格を持つ。すでに上方では元禄時代から「軽口」と呼ぶ短い話に落ちがつく咄が流行していた。京都には露の五郎兵衛、大阪には米沢彦八がそれぞれいて咄本を残している。また、同じころ江戸には鹿野武左衛門がいくつか咄本を残している。鹿野は江戸落語の生みの親だが、冤罪で姿を消した。

時代がやや下って、大阪では1776年、『年忘咄角力』『立春噺大集』『夕涼新話集』といった一般から募集した咄本が発刊されている。この背景には中国から入った中国笑噺の影響が無視できない。

1776年、幕臣で狂歌師、白鯉館卯雲(はくりかん・ぼううん)が京都に出張、中国笑話が流行していたところから、江戸に戻って咄本『鹿の子餅』を発刊している。

続いて登場するのが烏亭焉馬(うてい・えんば)。焉馬の本業は大工の棟梁で、野美釿言墨金(のみちょうなごん・すみかね)の名で狂歌を詠んでいた。江戸落語の中興の祖とされる。

カラー刷りの浮世絵

もうひとつ、この時期、旧暦のカレンダーを競い合う絵暦連、「大小絵暦交換会」から鈴木春信の錦絵、つまりカラー刷りの浮世絵が生まれている。1765年のことだ。江戸時代は陰暦のため、大の月(30日)と小の月(29日)が毎年変わる。そこで、年始の贈り物として工夫を凝らした結果だった。

交換会の主催者は旗本千六百石、大久保甚四郎忠舒(1722-77)や同千石の阿部八之丞正寛(1724-77)らで、大久保が春信を重用したという。

浮世絵のカラー化は市場を一気に広げると同時に、江戸の職人たちの心意気と技を発揮する格好の舞台になった。プロデューサーである出版元の指示のもと、絵師、彫り師、刷り師が一体になり、見事な作品を仕上げていく。

今日、デジタル技術の発達で細部にわたる考証が進むにつれ、優れた色彩の取り合わせや刷りの多彩な技法がはっきり伺えるようになった。しかも、随所にスポンサーらしき店の屋号をさりげなく掘り込むなど、巧みなマーケティングセンスが伺える。

ところで見当をつけるという言葉があるが、語源をご存知か。カラー化で12回も重ね刷りをするために、色がずれぬよう、目印を版木に掘り込んだところから来たものだ。

俳諧

俳諧は連歌の座興として始まったが次第に独立性を強めた。松尾芭蕉(1644-94)が江戸を拠点に全国を行脚、「わび」「さび」「しおり」「ほそみ」といった基本を押さえ、蕉風と呼ばれる俳諧の流儀を確立した。時期的には元禄期に当たる。

ただ、ここでは、その文学性よりも、全国に張り巡らした同好者のネットワークのすごさに目を留めたい。一泊世話になったら翌朝には次の旅先に向かうなど、いくつかの申し合わせを守りながら、自由に交流していた。句作と同時に見聞の交換もあった。

ちなみに、紀伊国屋文左衛門は、芭蕉の高弟、宝井其角の弟子だった。

(誕生と系譜 第11話了、桐山)

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