シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜【上】

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第10話「江戸っ子第一世代」

江戸っ子には第一世代と第二世代がある

当世、一般に流布している江戸っ子像は落語に登場する「八っつぁん、熊さん」や浪曲の「森の石松」あたりのものが多い。しかし、実際には、この江戸っ子像は1933(昭和8)年以降に発行された三田村鳶魚の著作に影響されたものだ。妥当とはいえない。鳶魚は町人嫌いの旗本からの取材が多く、文献上の考証がやや甘いとされる。

越川禮子さんによると、芝三光さんは「江戸に関する文献で信用できるのは明治10年からせいぜい20年までに出たもの」が口癖だった。

前回引用した『江戸ッ子』説を借りれば、江戸っ子は第一次、第二次の二世代に分けて考えるべきだという。第一世代の江戸っ子は1700年代中葉に登場した商人を中心としたグループである。後述する宝暦・天明期(1751-88)の町人文化を支えた。

ところが寛政(1789-99)の改革が始まった。旗本や御家人への貸し金を棒引きにされ、大名貸しを踏み倒された。出版物の取り締まりも厳しくなった。おかげで景気は落ち込むし、精神的にも痛めつけられ、勢いをそがれた。

その後、文化・文政期(1804-30)以降、つまり、1800年代に登場した庶民が第二世代の江戸っ子だ。

江戸っ子の主流はいばらない

少し長くなるが『江戸ッ子』から引用してみたい。

「主として化政期以降に『おら、江戸ッ子だ』と江戸ッ子ぶる自称江戸ッ子と、そうではなくて、日本橋の魚河岸の大旦那たち、蔵前の札差、木場の材木商の旦那たち、霊岸島や新川界隈の酒問屋とか荷受商人というような元禄以前ごろから江戸に住み着いて、江戸で成長してきた大商人ならびに諸職人たち。こういう人たちは自分で威張ることはしないが江戸ッ子の主流である」

著者の西山さんは『江戸ッ子』のなかで、こうも述べている。

「近代日本では自称『江戸ッ子』だけを『江戸ッ子』の総体と思い込んでしまった。『江戸っ子』の心意気は旧幕時代の人情・仁義の世界、として断絶することに急であった。このため『江戸ッ子』本来の姿が見失われてしまい、『江戸ッ子』であることに恥じらいを感ずるものが現れた。」

あの芥川龍之介も自分が「自称江戸っ子」の末裔ということで悩んだ時期があるという。

第一次江戸っ子と第二次江戸っ子の違いを知らなかったせいらしい。

明治20年代から30年代にかけて、いくつか江戸の見直し機運が出てきた。しかし、大勢になるには、まだまだ100年近くを要したことになる。

水道の水を産湯に、、、の原典は

ついでに、よく耳にする江戸っ子の特徴を示す名調子を山東京伝の洒落本『通言総籬』(つうげんそうまがき、1787年)から引用しておく。

「金の魚虎(しゃちほこ)をにらんで、水道の水を産湯に浴びて御膝元に生まれ出ては拝搗(拝みつき)の米を喰(くらっ)て、乳母日傘(おんばひからかさ)にて長(ひととなり)、、、、」

家康が江戸入城にあわせて神田上水を作らせたことは良く知られている。初期の江戸町人たちは現在の赤坂にある溜池の水を使った。白米を食べるのも常識だった。金の魚虎云々は、こうした江戸の事情を簡潔に述べている。

この山東京伝(1761-1816)の本業は煙草や小間物を売る商店主。戯作者で浮世絵師でもあった。ちなみにこのペンネームは江戸城紅葉山の東に当たるので山東庵、京橋に近いので京伝からきている。後述する幕臣で、狂歌師、戯作者の大田南畝(1749-1823)と並んで、この当時の江戸っ子の実際を、筆に任せて、さまざまに書きたてた、いわば江戸っ子プロパガンダだった。

(誕生と系譜 第10話了、桐山)

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