シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜【上】

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第9話「1750年前後」

江戸っ子の誕生

大阪に頼らず、江戸が木更津、桐生、川越、館林、甲府、静岡などを後背地に持った自己完結型の地域経済圏を確立するのは1700年代に入ってからのことだ。「江戸っ子」という言葉の誕生が、時代の雰囲気を象徴的に示している。

『江戸ッ子』(西山松之介著、吉川弘文館)によると、江戸っ子が文献に初めて登場するのは『川柳評万句合』(1771年)。

「江戸っ子は わらんじはくのに らんさわぎ」

「わらんじ」はわらじのこと。わらじを履くというのは旅に出ることを意味する。当時は「明和のお陰参り」と称して、お伊勢詣りが大流行していた。

「らんさわぎ」は大騒ぎ。つまり、普段はめったに履かないわらじである。紐が短いの、長いの、うまく結べたか、どうか、さあ、いよいよ出発だ、とはしゃいでいる様子が伺える。それだけ、豊かな社会が始まったということだろう。

ついでに言えば、伊勢神宮への三大お陰詣りは1705(宝永2)年、1771(明和8)年、1830(天保元)年を指す。明和のそれは南山城から始まり、奈良、大阪、河内、尾張、岐阜、大垣と来て、江戸に波及した。

ブームの背景には20年ごとの遷宮に絡めた、伊勢神宮の禰宜たちの綿密なマーケティングがあった。

盛んになった旅

「入り鉄砲に出女(いりでっぽうに、でおんな)」

関所の取締りが厳しかった例としてよく言われる。江戸に入ってくるときは武器を持っている謀反人に気をつけろ、江戸を出て行くときは人質に取っている大名の奥方もしくはそれに類似した人物が逃げ出したものとして気をつけろ。こんな風に昔の学校では教えた。

しかし、1700年代に入ると、関所の取り締まりは、かなりゆるやかになり、旅を楽しむ人が増えていた。すでに松尾芭蕉(1644-1694)は1689年3月、『奥の細道』行脚に出発、東北各地に俳諧ネットワークを着々と築いている。

1802(享和2)年、十辺舎一九の『東海道中膝栗毛』が刊行された。栃面屋弥次郎兵衛とその食客、喜多八、つまり弥次さん、喜多さんを主人公にした滑稽譚。好評を博し、完結したのは1822(文政5)年のことである。

時代はやや下る。1841(天保12)年から5ヵ月あまり、伊勢参りを口実に全国を旅した商家の内儀、小田宅子(おだいえこ)の『東路日記』がある。これを元に、作家の田辺聖子さんが小説『姥(うば)ざかり花の旅笠』(集英社)を書いた。当時の旅の模様とともに、当時の教養のある、生き生きした女性像が浮かび上がり、楽しい。

自ら旅をして見聞を広め、地元に帰って周囲の者に話したり、書き物にまとめる作業を通じて、各地の情報は思いのほか全国にいきわたっていた。

江戸言葉

「江戸っ子」という表現が登場する10年ほど前から「江戸者」という言葉が出てきたことにも留意しておきたい。初見は1759(宝暦9)年、「江戸ものの 生兵法が 相の山」がある。相の山は伊勢の地名。相の山節は別名、伊勢節。人生の無常をうたった。つまり、江戸の人たちは十分な準備をせずに弾みで動くから、伊勢の参詣人に物乞いをする伊勢節を歌うようになる、という。

生粋の江戸生まれという意味で、「江戸根生(ねお)いの」といった表現もこの時期の産物である。

江戸っ子に関して、もう少し寄り道をしたい。先の『江戸ッ子』によれば、「江戸訛り」の初見は「童子 月の色を悟れる 江戸訛」(『俳諧見花数寄』延宝年間、1673-1680)。太陽と月の違いを理解したうえで、江戸鉛で月の色具合を説明しているよ。

「江戸言葉」は「水道飲みなれて 江戸言葉 聞きならひ」(『色里三所世帯』下の三、貞享5年、1688)が初見という。

「大江戸」は1789年に出た『通気粋語伝』に初登場した。

実際に使われている言葉や表現が文字化されるまでには通常、10年から20年ぐらいかかるといわれる。したがって、江戸っ子という意識が出てきたのは1750年ごろにまで、さかのぼれるのではないか。

江戸言葉は江戸近在の人々が一旗あげようと集まってきた人々の言葉遣い、発音の仕方を見るとよくわかる。お日様は「おしさま」、彼岸は「しがん」、火箸は「しばし」、、、「ひ」と「し」の区別がつかない。

余談だが、吉原では廓言葉が生まれた。各地から寄ってきた彼女たちに方言をしゃべられたら興ざめと言うわけで、「ありんす」とか「来てくんなまし」とか、独特の言葉体系を作り上げた。

「ばからしう アリンス国の 面白さ」

「三会目 心の知れた 帯を解き」

初めての廓行きは「初会」もしくは「一見(いちげん)」、二回目で「裏を返す」、三回目で「馴染(なじ)み」。

(誕生と系譜 第9話了、桐山)

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