シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜【上】

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第7話「『町人考見録』の戒め」

浮上した課題

ともあれ、実力を付けてきた商人に新しい課題が発生する。あまり派手な振る舞いに及ぶと、建前上は上にいる武士、つまりお上からにらまれる。

はなはだしければ闕所(けっしょ、家屋・財産没収・取り潰し)、所払い、財産没収の憂き目に会う。

当時、日本一の豪商、五代目淀屋辰五郎のような憂き目に遭わぬようくれぐれも、生活哲学を磨かざるを得なかった。

そのころ、武士から目の敵にされる豪商はどちらかといえば、大阪や京都に在住していた。豊臣秀吉が天下を取って以来、すでに大阪が「天下の台所」としての役割を果していたからだ。

淀川に自費で橋をかけることは、豪商にとって見栄でもあり、社会貢献でもあった。大阪の商人たちは競って財力を投じた。この結果、淀川にかかった橋の大半は豪商たちが寄付したものだ。

淀屋五代目の悲劇

淀屋橋にその名が残る淀屋が取り潰しの憂き目に遭ったのは1705年のことだ。天井にガラスの水槽を設け、金魚を泳がせるなど贅沢をしすぎたことを咎められたとされるが、真相は分からない。

淀屋初代の常安は淀川の文禄堤改修で秀吉に認められ、大阪夏の陣では陣屋を家康に提供し、お褒めに預かった。五代目の時代は押しも押されもせぬ日本一の豪商だった。目立ちすぎた反動で見せしめにされた可能性が高い。

考えてみると、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が、高家筆頭の吉良上野介義良に殿中で切りつけたのが1701(元禄14)年、赤穂義士が本懐を遂げたのが1702年、翌1703年に切腹処分という流れの中で、幕府の措置に対する世論の不満が高まっていたことも影響していよう。

また1704年、摂南に完成した大和川の付け替え工事をめぐって、多額の資金が動き、利権も発生した。何らかの疑惑事件にかかわったのかもしれない。

三井高房の『町人考見録』

さかのぼれば、時の権力と手を結び、大をなした豪商が、その後、いかにも見せしめとして糾弾された事例が結構ある。

あの千利休(宗易、1522-1591)。大徳寺の山門に自分の木像を置くことを黙認した。これが、日ごろのストレートな物言いで、不興を買っていた秀吉の怒りに火をつけ、一生を終わっている。

1610年、黒田長政が博多に転封されると、秀吉に可愛がられていた博多の豪商、嶋井宗室(1539-1615)は次第に活躍の場を奪われた。失意の中で亡くなる5年前、豪商の家訓第1号を残している。往時の勢いはこれっぽっちもない。しかし、これなどは、まだ、いいほうだ。

同じ博多の豪商、神屋宗湛(1551-1635)は中国産の絹取引の特権「白糸割符」を奪われた。最近、世界遺産に登録された石見銀山を開発、南蛮交易時代の資金をまかなった神屋寿偵を遠祖に持ち、地域経済にも大きく貢献した。にもかかわらず、政権が変われば一顧だにされない。

1667年、福岡藩の経済を一手に引き受けていた博多商人、伊藤小左衛門が密貿易のかどで処刑された。1662年から発覚するまでの5年間に、台湾独立を図った鄭成功と結ぶなど7回にわたって鎖国の禁を犯したという。処罰対象者は一族郎党百数十人に上る。

三井家三代目、三井高房があらわした『町人考見録』(1728)は、リスクの大きい大名貸しや、分を超えた贅沢な暮らしぶりで没落していった京都商人を実名入りで書き、一族一統を戒めている。それだけ商人のありように危機感を持っていたゆえだろう。

本人自身も、現金掛け値なしの商法で大をなした後、大奥の御用商人になるよう打診された。即答は避けたものの、断りきれなかった。結果は、案の定、莫大な損失が残ったという。

(誕生と系譜 第7話了、桐山)

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