シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜【上】

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第6話「豪商たちの足跡」

時代を創った豪商たち

「江戸店京商人(えどたなもち・きょうあきんど)」という言葉がある。江戸に店を構えている京都商人の意味だ。その実力は1657(明暦3)年の江戸の大火事、「明暦の大火」に伴う復興事業で一気に発揮された。

城下町の建設は寛永期(1624-1644)に集中した。土地は割り当てられるが、建物は自前で作らなければならない。武家屋敷が立ち並ぶ町並みは、残された絵画などの資料からわかるように、桃山時代と妍を競う豪華なものだった。

大名たちはすでに資金が底をついていた。そこへ、江戸の六割を消失する大火が起き、一からやり直しときた。

豪商たちから復興資金を借りなければ資金が回らない。米を担保に大名貸しが一気に増えたのは、この明暦の大火がきっかけになっている。

経済化を促進した海路開発

上方から江戸への回路による生活物資の輸送は1619(元和5)年、堺の商人たちによって創設された菱垣廻船を中心に始まった。

1671年、大阪から太平洋沿岸を伝って房総沖に到着、改めて三浦半島まで戻り、潮の流れに乗って江戸へ、という東廻り航路が完成した。

ついで1672年、西廻りの海路、つまり岩手から新潟を経て下関を回り、瀬戸内海を通って大阪へ、という海路が生まれた。それまで日本海側で陸揚げすると、琵琶湖を経て、京都大阪に運ぶのが普通だった。積み下ろしの回数が多く、しかも少量しか運べないから物流費が高くつく。この弊害がなくなった。この西廻りは、後に北海道から大阪まで日本海側の港を結ぶ北前船を生む。

この航路の発達は、やがて「くだらない」という言葉を生んだ。上方から江戸に下って売れるものは「良いもの」、ところが「下っても売れないもの、逆に売れないものはくだらない」というところからの言葉遊びだ。

海路による物流網の完成は、大量の荷を一気に運び、物流の効率化をもたらした。同時に港の発達を促し、地方産品の交換ビジネスを生んだ。いずれも河村瑞賢の手柄である。

その功で時の将軍にも謁見を許されている。ちなみに、この人、明暦の大火では木曽の木材を買い付けて、大儲けした。

1694(元禄7)年になると、大阪からの積荷を買い取る十組問屋が結成された。1730(享保15)年に酒店組が独立、樽廻船を運営し始めた。

札差、両替商、為替の発達

「大消費地の江戸」と「天下の台所である大阪」を結ぶ大動脈の完成は、経済活動を活発化させ、実物経済から信用経済へと発展していく。米を扱う札差や金貨・銀貨・銅銭を交換する両替商、手形で決済する為替商などが瞬く間に勢力を伸ばしていった。

為替は1683年、越後屋が日本橋に為替を扱う支店を設けたことから追随する動きが相次いだ。幕府が着目、91年、越後屋以下12店を、為替御用商人としたことから急速に発達した。

1688年、元禄時代が始まった。物流網が整備され、為替も機能し始める。商業が発達、豊かな経済社会が到来する。各藩が競って大阪に出した蔵屋敷の運営を引き受ける町人蔵元が金融や米の先物取引などを仕切るようになった。

1704年、大和川の河川の付け替え工事完成をきっかけに、摂津や河内など大阪南部で開墾が進んだ。米に比べてはるかに付加価値の高い木綿を扱う豪農が生まれた。鴻池家はその代表例だ。

米中心経済の欠陥を木綿をはじめとする地方産品が代替わりし、製造、加工技術を持った新しいタイプの商人が生まれていくのである。

紀伊国屋文左衛門

江戸ではどのような状況だったか。紀伊国屋文左衛門(1669-1734)に焦点を当ててみてみよう。

紀伊国、つまり和歌山で彼の名前が知られるようになったのは、歴史考証の専門家、稲垣史生さんによると「鰐鮫退治事件」。近海を泳ぎまわる鰐鮫に漁民が困惑している中、一人、船に乗って漕ぎ出し、毒を仕込んだ木製の小さな魚を飲ませて始末した。腹の中から1,000両の大金が入った革袋がでてきた。代官所に届け出ると勝手に処分してよいという。そこで剛毅なことに村人にばら撒いてしまった。

この事件の直後、人気が沸騰する中で、命知らずの若者を集めた。紀州から嵐をついて、江戸にみかんを運ぶのに成功した。わずか数えの18歳で、1686年のこと。

当時の江戸では11月8日は鍛冶屋や石工など、吹き革(ふいご)を使う職人が稲荷八幡に感謝する鞴(ふいご)祭り。縁起物としてみかんを配る慣わしになっていたから、時期が近づくと、みかん相場は5割も上がった。これに目をつけたのだ。

このビジネスで得た5万両で、紀文は鮭10万匹を買い付け、京・大阪で売り、利益を2倍にした。

富岡八幡との深い縁

その後、紀文は江戸へ進出、八丁堀で材木商を始め、寛永寺の根本中堂の造営で、さらに財をなす。根本中道は完成してまもなく、大火で焼失したが、商取引としては大成功だった。

吉原での豪遊ぶりは有名だ。ライバルの材木商、奈良屋茂左衛門が吉原で雪見を企てたところ、小粒銀で300両をばら撒き、庭を台無しにしている。遊女たちが先を争って庭に飛び出し、雪を蹴散らしてしまったためだ。

かと思えば、三度までも吉原を借り切った。一晩で1,000両の掛かりである。当時、40万両の身代だからできた。一種の話題づくり、宣伝費のつもりだったのだろう。

「紀伊国屋 蜜柑のように 金を撒き」

しかし、1709年、将軍吉宗が逝去、側用人の柳沢吉保が失脚すると、翌年、材木店を閉じてしまう。

かといって、一般に伝えられるような惨めな晩年を送ったわけではない。1717年には深川・富岡八幡宮に総金張りの神輿三基を奉納している。その後、この富岡八幡宮が大火で焼けると造営費として全財産を寄付、1734年、ひっそりと亡くなっている。

(誕生と系譜 第6話了、桐山)

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