シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜【上】

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第4話「関心寄せた文化人」

柳田国男と扇谷正造

「江戸しぐさ」、そのものに関するまとまった文献は残っていない。日々の暮らしに関わるものだし、いちいち書き留めておく必要を感じなかった。仮に文書で書き留めておいた場合、形式論に流れ、その本質が伝わらないという危惧もあったようだ。

また、後述するように、「大商人の流れを汲む江戸っ子」と「庶民の江戸っ子」と、同じ江戸っ子でも二重構造になっていたことが秘密主義につながったともいえる。「自分たちは江戸しぐさを伝える正統派」という思いがあったに違いない。

冷静に考えてみると、こうした江戸しぐさを積み重ねて、感性を磨いていけば、お店がますます繁盛していく。とすると、「他人には話したくないノウハウ」という意識が生まれた可能性もある。

『遠野物語』などで知られる民俗学者の柳田国男から戦後、取材の申し込みを受けた。

しかし、ゆかりの古老たちは柳田の取材を断った。

『週刊朝日』を発行部数百万部の大雑誌にした名編集長として名高い扇谷正造も取材に意欲を燃やしていた。扇谷は芝さんと意気投合、定年になったら一緒に研究しようと誓い合ったが、いざ取材に取り掛かろうとしたところで夭逝、実現しなかった。

卑弥呼

それだけに、芝さんがいろいろ集めた資料は、質量ともにあって、たとえ断片的なものにせよ、たいへん貴重なものである。この資料を読み込んだ結果を、「利き書き」の形でまとめた越川禮子さんの功績は大きい。

越川さんが江戸しぐさに関心を持ったのは読売新聞朝刊のコラム『編集手帳』に載った記事がきっかけである。1983年3月23日付のもので、「江戸ゆかりの人たちが勉強会を開いて江戸しぐさを後世に残そうとしている」とあった。

当時、このコラムを担当していたのは論説委員の村尾清一さん。早速、連絡を取り、芝三光さんの存在を知る。後は押しの一手で、直弟子にしてもらうのである。

「とにかく、しつっこくて、この卑弥呼様には生殺しの目に遭いました」

公開しないはずのものを本にまでされてしまったものだから、半分はそのいいわけだ。

しかし、卑弥呼といい、生殺しに遭ったといい、江戸人らしい最大の褒め言葉だった。

処世術から生活哲学に

江戸しぐさが誕生した経緯と時を経て次第に拡充していく有様は、豪商たちが歴史の中で果たした役割と思想家たちの動きを冷静に見ていくと、十分、推定が可能である。

商人としてあるべき行動原理、具体的に繁盛を約束する対応の仕方などは京都、大阪から江戸へ、あるいは各地へと伝わった。そして、その主たる運び役は近江商人や伊勢商人で、各地の実情を加味しながら育っていったのではないか。

今回、書き進めている「江戸しぐさ―誕生とその系譜」は、その試論である。

第一のキーワードは「建前と本音を使い分けた処世術」である。建前の権威にこだわる武士に対し、経済的に実権を握った商人がつつがなく生き残っていく必要性から「江戸しぐさ」が生まれたと見ると分かりやすい。

やがて「処世術」は「生活哲学」にまで磨き上げられていく。江戸しぐさの第二のキーワードは「行動を伴った精神性の高い生活哲学」である。

第三のキーワードは「ものの考え方」「言葉遣い」「振る舞い」をいかに自分のものとして身につけるか、そして帰するところは「相手への思いやり」だった。

こうした江戸しぐさを極めれば極めるほど、人間関係は円満になり、ビジネスを成功に導くなど、副産物も生まれた。第四のキーワードは「繁盛しぐさ」だ。

(誕生と系譜 第4話了、桐山)

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